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ビルを出ると、冷たい風に煽られて背中が丸まった。頭や首がスースーして髪が短くなったのを改めて自覚する。
「歩いて帰るの?」
「会社。近いから歩くよ」
黒のロングカーディガンを羽織った桔梗は、寒さに肩を窄めながら「本当に仕事バカね」と呆れている。
並木通りが終わる交差点の手前で足を止め、「ありがとう」「じゃあ、またね」と別れを告げた。
横断歩道を渡った後、俺はある事を思い出して後ろを振り返った。桔梗は交差点の前に立ち、俺を見送る姿勢のままだった。
「以前来た時にさ、俺が養子縁組に乗り気じゃないって話しをしたじゃん」
桔梗はロングカーディガンの前を合わせながら頷く。
「ええ、そうだったわね。確か、順平が今の仕事を続けるためには、順平のご両親の籍に瑠珂が養子で入るしかないって話よね」
「そう、それ」
「それがどうかしたの?」
俺達の距離はだいたい15メートルぐらい。日付が変わろうとしている時刻で周りに人はいない。車と電車の走行音がちょっとうるさいが、桔梗の声ははっきりと届いた。
「俺さ、アイツの両親に一度も会った事がないんだ」
あの時は言えなかった、理由の一つを暴露する。
桔梗は悲痛な面持ちになり、「反対されているの?」と躊躇いがちに声を張った。
俺はマウンテンジャケットのポケットに冷えた手を突っ込み、首を傾ける。
「どうだろう。分からない」
順平が俺の存在を肉親に伝えているのかいないのか、それすら確かめた事がない。
「桔梗の言うとおりだ。俺は我儘で、ケジメを付ける覚悟が足りなかった」
悩み続ける日々の中で、桔梗の言葉が頭から離れなかった。
ーーー今の状態が続くなんて保障はどこにもない。
ーーーケジメのつけ方を考えておかなきゃダメ。
まったくその通りだと思う。
「瑠珂! また来てね。いつでも待ってるから」
女性のようなしなやかな動きと繊細な気遣いをする桔梗に笑って手を振り、新橋駅に向かって歩き始めた。
ガード下の飲み屋が途切れる頃、日付が変わった。
今から約39時間後、俺は順平のいるセブ島へ出立する。
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