詰まる音

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 夏場ということもあり独特の刺激臭が鼻をつく。 音は女子トイレから聞こえた。 この時間なら誰かに見咎められることもない。  洗面台の蛇口から水が流れていた。 蛇口を閉めると、再び静寂に包まれる。 早く帰ろう。 踵を返した、その時。 ガポ……ゴポ……  足を止め振り返る。 蛇口から水は出ていない。 では、どこから。 ガポ……ゴポ……  生唾を飲み下す。 額から汗が垂れていく。 心臓が早鐘を打っている。 いい歳した中年が、何を怖がっているんだ。 誰か……そう、子どものイタズラかもしれない。 ガポ……ゴポ……  一番奥の個室だけ、扉が閉まっていた。 音はまだ聞こえる。 ゆっくり、ゆっくり一番奥の個室まで歩を進めた。 扉の前に立つ。 「誰かいるのか」 喉が張り付いて声が出ない。 重たい腕を持ち上げ、個室の扉をノックする。 ――コン、コン。  ノックと同時に、音は止んだ。  遠くから蝉の音が聞こえてくる。 何も、ない。 大きく息を吐き、俯く。 ガポ。 赤い液体が個室から溢れ私の足元まで広がった。 思わず短い悲鳴をあげて後退る。 ゴポ。 赤い液体は鉄臭さを孕み溢れ続ける。 「早く逃げろ」 脳内で警鐘が鳴り響いていた。 持てる限りの力を振り絞り足を動かす。 どうにか体勢を立て直し、私は出口まで走った。 よろめき、ふらつき、出口に辿り着いた所で足が止まる。 ――いる。 私の後ろに何かがいる! ガポ、ゴポ。 振り向くな、早く逃げてしまえ。 脳は体にそう命じるのに、体はいうことを聞かない。 やめろ。見るな。 洗面台から水が溢れている。 その水面から顔半分、鼻から上だけを出して、女がこちらを見ていた。 遠くからあの音が聞こえてくる。 水が詰まったような、あの音が。
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