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「おはよう」
ミチルが手を振る。
「おはよう小夜」
小夜は春人の前まで来ると地味な鞄を春人に向かって差し出した。
「おはよう春人くん、はいこれ。音楽室に忘れていたわよ」
一字一句聞き漏らさせなんてしないという強い意志を感じる喋り方だった。自信に満ちた小夜の顔を見降ろす。
彼女にはいろいろ伝えなければならないことがあった。けれど、本人を前にしたらなんだかなにも言葉が出てこなくなってしまった。春人は慎重な手つきで鞄を受け取る。
「ありがとう」
「もっと感謝して」
小夜は鼻を鳴らしながらしたり顔で春人を見上げていた。
「……小夜ちゃん、音楽室の……ピアノ……拭いてくれたんだよね」
小夜が笑顔のままで春人を見ていた。彼女が春人が流した血をなんとかしていなかったら、学校では今頃大変な騒ぎになっていたに違いない。そうなっていないということは、彼女が後始末をしてくれたということだった。すごく情けなかったけれど、彼女の采配に救われた。
「ありがとう、本当に……ありがとう」
春人はゆっくりと頭を下げた。
「この間は、ごめんなさい。助けてくれてありがとう」
「いいのよ」
彼女は至ってさらっとしていた。ほぼ一ヶ月前に男に襲われかけて泣いていた弱虫な彼女はどこにも見当たらない。心なしか笑顔も強かに見える。
「それよりも元気になってよかった」
敵わないなと心の中で思った。春人はもう一度ありがとう、と小夜に言って笑った。小夜がじっとこちらを見てくる。
「……春人くん、なんだかとっても、幸せそうね」
「そうかな」
「それに凄く素敵に見える……顔色がいいのね」
小夜は納得したように頬に手を当ててうん、と頷いていた。
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