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俺は何も知らなかった。話してもらえていなかった。そのことに苛立った。いや、要に頼られていない自分自身にもすげぇ、ムカついた。
午後いっぱい、要は課長としてずっと忙しそうにしていた。打ち合わせに呼ばれたり、パソコンで資料を作ったり。飯を食ったのかと心配することすら、今の要にとっては邪魔なことのように思えるほど、ずっと動き回っていて、今だって外出したっきり。営業がいまどこで何をしているのか一目瞭然でわかるホワイトボードには、要らしくない走り書きで「外出」とだけ書かれていた。
「課長、大丈夫かなぁ」
もう帰り支度を済ませた荒井さんがぽつりと呟いた。
「新規の顧客がかなり我儘みたいだね」
俺がそう言うと、んー、と不満そうに口をへの字にして、デスクに置いた自分の手をチラッと見た。
「それもそうなんですけどぉ、なんか」
何か言いたそうに伏せた視線の先で自分の指先をいじって躊躇ってる。そんな彼女の口に蓋をするように、俺の隣、そして、荒井さんの隣にいた営業の先輩がひとつ咳払いをした。まるで、口を慎みなさいって諭すような表情で、小さく会話の邪魔をされて、荒井さんが口を閉じてしまう。
「あんなのデマっすよ」
でも、その代わりに口を開いた奴がいた。俺の後輩で、いつも要に見積もりでダメだしを食らう、ちょっとどこか抜けていて、営業のくせに空気を読むのがかなり下手な山口が、今回も空気を読まず、荒井さんの言いたい言葉を口にした。
「こら、山口」
「あ、すんません、でも、ありえないっす」
俺にとっては先輩で、山口にしたら大先輩だろう営業からのお叱りにもめげず、続きを話してくれる。内容は大方、元営業課長が言っていたことと変わりなかった。要が色仕掛けで大手商社との商談を成立させたんじゃないかなんていう馬鹿げた噂話。
「だって、ありえなくないっすか? あんな怖い顔した人に色仕掛けとか無理ですって。美人っつったって男同士だし。それに」
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