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満員電車の中で、毎朝本を読んでいるスーツの男がいる。
最後尾の車両の、後ろのドアのすぐそばが定位置だ。毎朝そこで、駅に着くまで本から目を離さない。
俺はその人を見るのが好きだった。目を伏せて活字を追うのを見るのが好きだ。
睫毛が長くて綺麗だと思った。黒くてさらさらの髪が綺麗だと思った。綺麗な男だった。
すぐそばで眺めても、俺の視線にまったく気づかない。気づかれないのをいいことに、毎朝見ている。
俺は人より身長が高い。だから相手が見上げない限り、目が合うことがなかった。
次の駅が男の職場の最寄り駅らしい。いつもそこで降りる。俺がこの人を見ていられるのはたった二駅分。その数分間のために、絶対に寝坊はできない。
次の駅の名前をアナウンスする声。電車が減速を始める。ため息が出そうだ。もっと見ていたい。
ドアが開いて、人が降りていく。男は動かなかった。本から目を上げない。今日は別の駅で降りるのだろうか。
いや、違う。読書に集中していて気づいていない。
降りる人間が途絶えると、今度は乗る人間の波ができる。男は相変わらず真剣な表情で本を読んでいる。
「あの」
耐えきれずに声をかけた。電車のアナウンスすら聞こえないのだ。俺の声も届いていない。そろそろドアが閉まってしまう。
俺は男の本を取り上げて、言った。
「降りなくていいんですか」
「え」
本を奪われた男はポカンとした。それからハッとなり、「やべ」と小さく叫ぶ。人を掻き分け、急いで電車を飛び降りた彼の背中でドアが閉まる。
電車がゆるゆると走り出す。男が振り向いて、俺を見る。電車のドア越しに、しばらく目が合った。不思議そうに、俺を凝視している。
電車が動き、彼の姿が完全に見えなくなると、俺はうなだれた。
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