倉知編 「奇跡」

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 動けない。  俺の後ろにいた人が舌打ちをして追い越し、電車に乗った。  乗らないと。本を返さないと。でも、怖い。  おずおずと、男を見る。意外にも柔らかい表情をしていた。困った奴を見るような、そんな目だ。都合のいい錯覚かもしれないが、怒っているようには見えない。 「ドアが閉まります、ご注意ください」  アナウンスが流れた。ホームには俺一人。  素早く飛び乗ると、ドアが閉まった。そして、すぐ目の前に、触れ合う距離に、あの人が。 「あの」  何か言わなければ、と焦ったせいで裏返った声が出た。彼が、唇に人差し指をあてた。静かに、という仕草だ。  そうだ、電車の中でベラベラと弁明するわけにはいかない。マナー違反だ。 「本」  小声で囁かれ、ハッとした。胸に抱えていた文庫本を急いで差し出した。彼は本を受け取ると、消え去りそうな声で「昨日はサンキュ」と言った。  涙が出そうだ。怒っていない。それどころかお礼まで言われた。  不気味じゃないのだろうか。見知らぬ高校生が自分の降りる駅を知っているのに。  話したい。せめて、ストーカーじゃないことを説明したい。
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