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男は脇に挟んでいた鞄に本を片付けると、スーツの内側からペンと手帳を出した。揺れる電車で器用に何か書いている。
一度顔を上げて、俺を見た。至近距離で見上げられ、息が止まりそうだった。すぐに手元に視線を戻し、ペンを走らせる。そして一枚破り、半分に折ると、俺の腹に押しつけてきた。
受け取って、中を見る。十一桁の数字。携帯電話の番号だった。驚いて男を見る。親指と小指を立てて耳に当てた。電話しろ、というジェスチャーだ。
男は面白そうに笑っている。気持ち悪いとか、不快だとかの感情は見あたらない。
携帯の番号が書かれた紙と、男を交互に見た。もう俺を見ていない。視線は窓の外。綺麗だと思った。性懲りもなく、見つめた。やっぱりこの人から、目が離せない。
やがて彼が降りる駅になった。電車が止まってドアが開く。降りる人波が切れるのを待って、彼が最後に電車を降りた。
振り向いて、「電話しろよ」と言った。笑顔で手を振ってくれた。夢見心地で手を振り返す。ドアが閉まり、電車が走り出す。
姿が見えなくなると、一気に脱力した。壁に体を預けて、呼吸を整える。
何が起きたのか、よくわからない。
罵られたり、気味悪がられたり、するかと思った。負の感情を予想していたのに。
奇跡が起きた。
渡された紙切れをしっかりと握りしめ、今日という日に感謝した。
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