名も知れぬ駅

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 白い腕がカーテンを開け放つのと同時に、長く伸びたプラットフォームが窓外を真横に流れ始める。  列車の後方から滲む寂光に、眉稜の下の瞳が鳶色に深く沈む。  濡れた髪が肩口に掛かって、紺色のシャツが濃色の光沢を放つ。細く鋭角に突き出した顎線、薄い唇の狭間に前歯が純白の滲みだった。 「一緒に行こう」 「……え?」 「君の写真が撮りたくなった。だから、一緒に降りよう」 「そんな……」  僅かな逡巡。生まれたままの唇が、言葉にならない音に震える。  やがて、揺れる視線を定めた彼女は、慌ただしく荷物をまとめ始めた。  それでも発車時刻に間に合わないと見込んだオレは残された雑多な荷物を脇に抱え込み、彼女の手を握って走る。  乗降口から転げ落ちる様に飛び出して、名も知れぬ駅に降り立つ。  朝の薄明かりの中、彼女の楽しげな笑い声が初めて耳に届いた。  プラットフォームを離れていく夜行列車。  長く連なった車体が起こす風に髪をなびかせながら、どちらからともなく初めての抱擁を交わした。  あの瞬間の気持ちを、二人はいまだに名付けられずにいる。 (了)
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