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りんごを二つ手渡すと、彼女の唇が控えめに「Ta.(ター)」と呟いた。
後日、それがイギリス英語で「ありがとう」を意味すると知る。
残り少ない煙草を内ポケットに仕舞うと、途端に沈黙が降りた。
彼女の指先が、足下に降ろしたオレのバックパックを示す。銀色のバングルが、細い手首に鋭く煌めく。
「どうして、荷物を持って出てきたの」
「あぁ、同室のおばあちゃんの歯ぎしりが凄くて」
「貴方のご家族?」
「いや、違うよ。たまたま乗り合わせただけ」
「他の部屋に空いてる座席、ないの?」
「さぁ…… でも、今夜はもうここで過ごそうかな」
あの歯ぎしりを子守唄に一夜を過ごすくらいなら、線路の継ぎ目に硬く揺れる列車の音に、廊下で耳を傾けている方がマシだろう。
オレは作り笑いを浮かべてから、彼女がやってきた扉の方を示して自室に戻る様に促す。
だが、二つの林檎を抱えた長身は、眉根を寄せたまま動かない。
長い睫が縁取る、鳶色に沈んだ瞳。
その深部を彩る感情の薄片が掬い取れそうに感じられた刹那、淡桃色の唇が涼やかに言葉を紡いだ。
「Follow me.(ついて来て)」
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