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「葉月……」
どれくらい泣いていただろう。
きっと、そんなには時間は経ってない。
うつむいた私の視線の先に、黒く光った革靴が映る。
これが誰のものかなんてすぐにわかってしまうのは、私たちが名だけでも夫婦だからだ。
毎日、目にするこの靴は、共哉さんのものだった。
ゆっくりと顔を上げると、無表情の彼が立っていた。
見慣れた表情の彼に、胸が痛みを増すようだ。
私は彼に言葉を返せず、またうつむいて手で涙を拭った。
「葉月、すまなかったな……」
私は謝罪に驚いた。
「お前がしたいことはなんでもすればいい。フルートも恋愛も、何でもすればいい」
それは彼にとっての償いに聞こえた。
「俺のことは、同居人だと思えばいいんだ」
そう言われてすぐ、温かな感触を頭上に感じた。
それが彼の手だとわかりすぐ、共哉さんを見上げると、苦しそうな表情でこちらを見つめている彼がいた。
胸が苦しくなってしまう。
「今日は帰ろう葉月」
私が無言でうなずくと、「待ってろ、伝えてくるから」と、彼が言った。
そして次にふわりとした感触が身体を覆った。
それは彼のジャケットだった。
僅かに共哉さんの香水の匂いがする。
それからすぐ、彼は足音も立てずホテルの中へ戻るため、踵を返した。
私は彼の後ろ姿をただ見ているだけだ。
とてもじゃないが、“大丈夫です”とは言えない。
私はぼんやりと、彼を見つめ続けた。
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