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いつからだろうか。別れというものに涙を流せるようになったのは────
夏の暑さも鳴りを潜め、日中の陽射しの中でも随分と涼を感じるようになってきた。時折吹く乾いた風は心地よく、しかし多少の肌寒さを感じて数日前から厚手のジャケットを羽織るようになっていた。薄いカッターシャツの軽やかな着心地を丸々包み込む重厚感。ジャケットの内側の滑らかな質感は、外気の影響もあってかヒンヤリとカッターシャツの布越しに肌をくすぐる。
今の時期だけ感じることが出来る衣替えの新鮮な感触に、しかしどうしても心が弾むことは無かった。
高校生くらいまでは別れに対して強気だったと思う。この頃はまだ出会いと別れのサイクルが緩慢でゆったりとしていた。その時の流れの中で麻痺していたのだろうか。卒業式の時ですら涙を流さなかった。
いや、涙を流すことを格好悪いとさえ思っていただろう。今となっては、この頃の別れに涙を流さなかったことに後悔している。別れによって断ち切られた糸は何本あるのだろう。まだ三十は越えていない。しかし現在繋がっている糸より、断ち切られた糸の方が何十倍も多いことに気が付いた。
そして今日、新たに断ち切られる糸が一本。一回りほど歳の離れた会社の先輩だ。地方に支所を構える会社ならよくある御栄転というやつだ。右も左も分からなかった頃、恩師とも言える存在だった。この糸が今日切れる。切れた糸を再び手繰り寄せられる日は何年いや何十年後か、それとも今生の別れになってしまうのかは今の僕には知る術もない。
ただ、些細な別れが今生の別れになるかも知れないと思うようになったのは、僕が人よりも死に近いところにいるからだ。そうでなければ、まだ二十代にしてこんな事を考えるなんて無かっただろう。
出会いと別れの周期は学生の頃に比べて加速度的に早まっている。よく一年が経つのが早くなったと言われるが、それは体感速度の問題。時間は誰にでも平等だ。しかし、出会いと別れのスパンだけは体感速度では解決しない。確実に、無意識に、必然的に、人を繋ぐ糸が脆弱になっていくのだ。それが大人になるという事なのかも知れない。大人になると、糸が脆弱になるのに比例して涙腺も脆くなる。
気が付いたら僕は、別れに涙を流せる大人になっていた。
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