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「でもそれが君の幸せになるのか、オレにはわかんない」
そしてとてつもなく卑怯な言い訳を悪気なく続ける。
「君はこの世界で欲しいものはたいてい手に入れられる」
また僕の瞳をじっと見つめて、美しい桜色の唇を動かす。
「医学会の功労者として若くして何かの大きな賞も取るし、5時のニュースで特集されるし、エンエンの抱かれたい男一位になる」
最後のがなきゃ、正直信じた。千早は愚かな戯言を淀みもせずに口にする。そして瞳を潤ませる。
「けど、オレの世界では何もできない。たぶん適応することさえも無理だ」
自分が震えているのが寒さのせいなのか、別の理由なのか僕にはわからない。
「愛してる」
そう言って、ふわりと僕の腕の中から消える。突然、千早は中等部側の校庭に面した一点を目指して走った。
僕の足は動かない。追いかけたいのに近づくことができない。
千早は僕の目の前で柵を片手で握り、身体を浮かせてふわりと飛び越える。
わけがわからない。
「やめろよ」
そして一度だけこっちを振り返る。
「やめろって!」
僕の叫びを無視して軽く微笑むと、掌を見せて少し振った。
あの夢みたいだ。あの女の子の名前は思い出せない。顔も忘れてしまった。
あの女の子が窓の枠から飛んだ時と同じように、片瀬千早が音もなく柵の向こから消えた。
突然、金縛りから解けるように身体が軽くなる。
一瞬蹴躓いてよろけ、僕は千早を追いかけて、千早が消えた柵を握り、等部の校庭に目を凝らす。
そこには誰もいなかった。
花壇や通路、グラウンド、隅々まで見渡すが片瀬千早はどこにもいなかった。
膝から崩れるようにその場にへたり込む。柵に凭れかかると、いつの間にか落ちたのか、僕のコートが目に映る。やはり僕はもう馬鹿になってしまったのかもしれない。
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