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 『恋が始まる物理学』などという恥ずかしいタイトルをよくも付けたものだと思うが、この企画は当たった。わかりやすく丁寧な語り口と身近でありながら意表をつく具体例、そして写真ではなく柔らかい印象のイラストを多用した洗練された装丁で、ターゲットに設定した「理系科目にアレルギーのある大人の女性」の心を掴んだ。理数系のエッセイとしては異例の部数を売り上げ、不況の続く出版界でも「数学ブームの次は物理ブームか」などと注目を集めている。  この本の装丁を請け負ったのが、雅巳の所属する事務所だった。しかも編集者のご指名で、本文中の図解も含めてイラストはすべて雅巳が担当したのである。  女性を中心に人気があるとはいえ、若い男性が読んでもまったくおかしくない内容だ。斜め前の彼がその本を手に取ってくれたのは、雅巳にとって嬉しい偶然に思えた。  休日返上で取り組んでいた仕事の納品が終わって午後から休みをとった今日は、この後特に急ぎの用事があるわけでもない。ダメ元で連絡してみた相手にも今夜は予定があると振られたばかりだ。カフェの椅子もなかなか座り心地がいい。つまり、隣の彼より先に席を立ってしまう理由はどこにもない。自分も持参した本の内容に没頭しているふりをしながら、雅巳は横目でこっそりと彼の姿を鑑賞させてもらうことにした。  少し顎の尖った顔を頬杖をついた左手で支え、軽く首を傾けて右手でゆっくりとページをめくる。時折、聞き慣れない言葉を確かめてみるように、その唇が小さく動く。一区切りつくと思い出したようにコーヒーを口に運ぶ。絵になる姿だ。鉛筆を取り出してスケッチしたくなる。  そのとき、隣のテーブルの上で彼の携帯が鳴った。     
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