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 カフェの大きな窓越しに、植え込みの脇に座って電話を続けている彼の姿が見える。少し俯き加減で話をしている横顔は、よく見かける思い詰めたような表情だ。しばらくすると、諦めたように首を振って電話を切り、踵(きびす)を返して店内へと戻ってくる。  雅巳は彼の視線から隠すように、自分の携帯を素早く鞄の中に戻した。  だが、彼はこちらの席まで戻ってこなかった。入り口近くのレジのところで「すみません、お会計お願いします」と言い、そのまま支払いを済ませると再び店を出て行ってしまったのだ。  さっきまで座っていた椅子の上に『恋が始まる物理学』を置き去りにしたまま。  一瞬、雅巳は置いてきぼりを食ったその本が自分自身であるかのように錯覚した。咄嗟に席を立ってその本を手に掴む。店員に一言声をかけると、そのまま店を走り出た。
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