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瞬きしたその一瞬に雲が晴れ、遥か遠くに雄大な北アルプスが一望できた。
世界が割れたようだった。視界を覆っていたガスは層が薄かったのか、高度二千五百メートルの突風にひらりとかき消され、その先には目も眩むような絶景が広がっていた。
遠くには穂高岳、常念岳、槍まできれいに見える。この季節でも雪を被ったままのその連なりは、青々とした空と地上の境目で白く光っているようにも見えた。
また手前には雲海が広がり、まだ早朝の空気に目が覚めていないかのように、その身を地表に揺らしている。そのまま自分もぽんとの雲の上に降り立ち、空を漂うことができそうに思えた。
そんな夢の中のような景色を、昇り立ての朝日が優しく包み込んでいる。
山においてはこの情景は、毎日行われている当たり前の景色に過ぎない。しかし、普段地平の底を生きる私にとっては、ひとつの奇跡のようにも感じた。
私はそんな情景を、息をすることすら忘れてしまいそうになりながら、ただひたすらに見つめていた。
天気図を見ても、山小屋の情報でも、この数日は快晴は望めないだろうと思っていた。
だから、期待はしていなかった。でも山の天気は気まぐれだから不思議だ。
……神様は、私に何かを伝えたくて、この景色を私に見せたのだろうか。
そうだとしたら残酷だ、と思った。それでも私の思いは、変わらないというのに。
「……すみません。水、余ってませんか?」
そう声を掛けられ振り向くと、僅かに息を切らした若い男が立っていた。
薄手のダウンを腰に巻き、灰色のアンダーウェアに、下はカーキのコンバーチブルパンツを合わせている。手持ちは小さめの汗用タオルとスタッフバッグのみ。靴や小物は全て黄色で揃えていて、カラビナで腰に付けたチタンカップが、何処と無くこなれた印象を与えた。
一人でこの難度の山に登るにしては、なかなかに若い。私より年下、二十代前半だろうか。
あどけない表情や人懐っこい雰囲気が眩しく――いや、その若さが、妬ましいくらいだった。
彼は私が返事をする前に、外国人のようなオーバーなリアクションで肩を竦めてみせた。
「うっかり下に置いてきてしまって。後で返しますから」
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