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いじめがあったわけではない。
だが、誰もが言葉をかけるのを躊躇う雰囲気を何故かゆりは持っていた。
そう。
椎橋裕也。
他の誰でも。
アイドルや、イケメン俳優や。
誰もが口にする話題に何一つ乗って来ないのだ。
きっと家にはテレビがないんだ。そんな噂がまことしやかに流れるほどにゆりはその手の話題を口にしなかった。
それが、何故?
理由を聞こうと休憩時間に声をかけようとしたのだが、授業が終わるとゆりはすぐにどこかに行ってしまって捕まらない。
昼休みになんとかその腕をつかんだ瞬間、あとでね。そう言ってゆりは腕にかかるかなえの指を外してどこかへ行ってしまった。
消えてしまった後ろ姿を目で追うかなえを取り囲んだ友人たちは、行くことないよ。何なの?あの態度。と、今までにない辛辣さで食事の間中ゆりの非難をしていたが、かなえだけは違った。
あとでね。
そう言って笑ったゆり。
クス。と笑う小さな声。
黒めがちな目がゆっくり細まってくつろいでいる猫のようだった。
禁止されている口紅を塗ったかのように赤い唇の口角が緩やかに引き上げられていた。
それは、自分が知るゆりではなかった。
わずかな表情の変化は、しかし、ゆりの印象を大きく変えていた。
ーー綺麗。
とっさにそう思ったのだ。
思ってしまったから、放課後、ゆりに手を引かれるままに足を踏み入れたことのない、自分が行くことを想像したこともない場所へと迷い込んでしまった。
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