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足利尊氏が京都の室町に幕府を開いてから100年以上が過ぎたころ、時の将軍足利義政(あしかがよしまさ)は、あることを考え出すようになる。
それは、新しい政治のことでもなく、家来たちのことでもなく
「将軍やりたくねーマジ辞表出したい」
彼は征夷大将軍(武士のトップ)でありながら、政治に全く関心を示さなかった。
この頃、町では飢饉(ききん:人々が飢えで苦しむこと)や一揆(いっき:農民の暴動)が相次いでいた。
これらの対策をすべき立場であった義政は、これを完全放置。
「こんにちは義政。シバくぞボケ」
と、後花園天皇(ごはなぞのてんのう)に手紙でキレられる有り様であった。
彼の前の征夷大将軍は、長男の足利義勝(あしかがよしかつ)。
義勝が将軍職に就いたのはわずか9歳。
9歳で幕府を動かすのには無理があるため、もちろん周りの大人がサポートするのが通例だった。
彼は若くして亡くなったため、三男の義政がその職を引き継ぐこととなる。
そして彼もまた、8歳という若さで征夷大将軍となった。
彼は20歳で日野富子(当時16歳)と結婚。
彼らの間に子どもが生まれたら、その子に将軍職を譲ることができる。
しかし、彼らの間には長く跡継ぎは生まれなかった。
そこで、義政は
「義視、帰ってきてー」
出家していた四男の足利義視(あしかがよしみ)を呼び戻した(※出家時の名前は義尋[ぎじん])。
この頃、長男(将軍職に就く人)以外は出家することになっていた。
「なになに義政兄さん」
「俺将軍職やりたくねぇし、次やってくれん?」
「は?絶対嫌やし」
それもそのはず、もし義政と富子の間に跡継ぎが生まれたら、トラブルになるのは必至。
彼はそれを分かっていた。
しかし、義政の説得により、義視はしぶしぶ了承。
「わかった。じゃあ将軍職やるけど、その代わり絶対子ども(跡継ぎ)作らんとってや!あと、万が一の事があった時の味方みたいな人とかいないと俺やらんで」
義視のサポートには実力者の細川勝元(ほそかわかつもと)が就いた。
こうして、義政はようやく将軍職を引退することができる。
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