三話 義政、究極の放置プレー

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将軍としてはほとんど功績を残さなかった義政。 しかし、彼は趣味である「文化面」で、後に数々の功績を残すこととなる。 将軍職を退いたあと、義政は慈照寺(じしょうじ)を建てる。 義政の祖父は足利義満。 そう、あの「金閣寺」を建てたことで有名な将軍。 義政も祖父にあやかり、自分の好きな文化を形で残そうとした。 この寺は後に世界文化遺産に認定される。 それがこの慈照寺、すなわち「銀閣寺」のことである。 銀閣のそばに東求堂(とうぐどう)という建物がある。 東求堂の建築様式は「書院造」である。 畳があり、障子があり、そして床の間がある。 日本の和室の原型となる建築様式が、この頃に完成した。 また義政は普段からお茶を好んでいて、茶器のコレクションをするほど茶道にハマっていた。 この頃、義政に使えていたのが「わび茶」の創始者である村田珠光(むらたじゅこう)や、田中千阿弥(たなかせんあみ)。 ちなみに田中千阿弥の孫は「わび茶」を広めた千利休(せんのりきゅう)である。 義政は絵画にもハマっていた。 彼が推奨する絵画はどれも後に有名になる。 水墨画で有名な雪舟(せっしゅう)。 「唐獅子図屏風(からじしずびょうぶ)」で有名な狩野永徳の祖先狩野正信など、義政が目につけた絵画はたちまち名画になっていった。 そして、これら義政が広めていった文化を 「東山文化(ひがしやまぶんか)」 と呼ばれるようになる。 東山文化の中にあるように、義政は「わび・さび」の観念を生み出した。 銀閣も、金閣に比べて決して豪華な造りではない。 けど、そこに「わびさび」=「質素を第一(良い意味で)」があるのだ。 ただ、これらの素晴らしい文化の背景には、計り知れないほどの犠牲があったことは事実。 これらのことから、義政は典型的な「文化人」だったと言えよう。 「富子、慈照寺建てたいからちょい小遣いを…」 「黙れ」
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