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「てかさ、その手紙には何て書いたあったん?」
友人が妹子にたずねる。
妹子は手紙の内容について話し出す。
手紙にはこんなことが書かれていた。
「 日出処の天子、書を没する処の天子に致す。つつがなきや 」
それを聞いた瞬間、妹子の友人が、
「ちょー待ってwバリ隋のことディスってるやんw」
と吹き出した。
これを現代語にすると
「日が昇るところにいる日本の天子が、日の沈む中国の天子に手紙を書くよーん、元気かい?」
といった感じになる。
この手紙で煬帝がキレたポイントは2つあった。
まずひとつは「日の昇る倭の国」と、「日の沈む隋の国」、これらの表現だ。
確かに日本は中国からして東に位置するので、先に「日が昇る」のは日本である。
しかし、日が昇る=国が発展している、日が沈む=国が衰えている、と捉えるならば、隋は衰えている国、と解釈できなくもない。
そしてふたつめ、煬帝の逆鱗に触れたのが「天子」の使い方だ。
「天子」というのは中国の言葉で君主(国を治める者)を指す言葉。
君主は世界でひとりしかいないはずなのに、どこぞの小国(と、当時の中国は思っていた)である日本が、自国を「倭の国の天子が~」と名乗り出したのが、煬帝を怒らせた原因だったと言われている。
「そら君怒られるわw」
「てかさ、あの手紙俺が書いたわけちゃうし何で俺が怒られなあかんねん」
「てかさ、何で聖徳太子さんはこんな喧嘩腰の手紙を書いたんやろか」
それには聖徳太子の、ある「考え」があった。
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