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━━どんっ。
突然、横から押されて男はよろめいた。先程のカップルが男を押しのけてカウンターの前に躍り出たのだった。
いや、押された気がしただけだった。不思議と衝撃は感じなかった。
「お弁当温めますか?」
オーナーとカップルのやり取りに何らおかしいところはない。
男はぽかんと口を開け、一歩二歩と後ずさった。
「無駄ですよ」
突然、背後から声がした。
驚いて振り返る男。
そこには男と同年代と思しき中年男性が立っていた。いつからそこにいたのか。途方に暮れて立ち尽くしているようにも見えた。
「よ、よかった」男は安堵のため息を漏らした。「やっと声の通じる人がいた」
「えぇ。ですが、どうやら私たち以外には届かないようです」
中年男性はどこか物悲しい表情を浮かべていた。
一体これはどういうことなのか。男が口を開きかけたその時、救急車のサイレン音が近づいてきた。そして付近で音が止まった。
「事故でもあったのですかね」
男は得体の知れない胸騒ぎを覚えながら中年男性に尋ねた。
中年男性はスーツのネクタイを外すと、それを丸めて、商品棚に置いた。
「近くで衝突事故があったそうですね。ここに来る途中、近隣に住む方々が話しているのを聞きました」
「衝突事故……?」男は眉をひそめた。
「見たくないものというのは自然と見えなくなるものですね。しかし音は違う。貴方も本当は覚えておられるでしょう」
男は激しい喉の渇きを覚えた。商品の飲み物を手に取ろうとした。だが、その手は商品をすり抜けるだけで、触れることはできなかった。
「俺は何も知らない。何も聞こえていない」
「車同士の衝突ですよ。結構なスピードが出ていたようで。しかも片方は道が一方通行であることを知らなかったようです」
中年男性は残念そうな、申し訳なさそうな顔で男を見つめていた。
そして最後に、中年男性はまるで許しでも乞うように、こう言い残してその場から消えた。
「ごめんなさい」
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