572人が本棚に入れています
本棚に追加
「はい、いらっしゃい」
反射的に飛び込んだ私を難なく躱し、目の前で東雲さんが微笑む。
受け止められた拳を振り払おうともがいていると、突然後方で「あっ!」と誰かが叫ぶ声が響いた。
振り向いた直後、ザササササ・・・と激しく足を擦る音が響き渡る。
アスファルトなのに砂煙が起きそう、そんな勢いで後ずさり、離れた先で立ち尽くしていたのは――見知らぬ若い男の子だった。
彼はこちらを見て目を見開き、唇を先ほどの叫びの形のまま固め、身を守るように両手で胸元をガードしている。
一体どうしたんだろう?などと言うまでもない。
今の私は殺意を滲ませたまま、東雲さんに手首を掴まれあちこちに身を捩ってる状態。
しかも場所が場所だけに、痴情のもつれで相手に飛びかかってる女だと思われてもしょうがないだろう。
あらぬ誤解を受けてはまずいと慌てたその時、彼が固まっていた唇をふっと動かす。
次に出るのは悲鳴か怒号か・・その前に誤解を解かなければと東雲さんごと身を乗り出すも、聞こえてきたか細い声は、予想もしないものだった。
「なんで・・今日は来る予定じゃ・・」
パクパクと口を開閉し幽霊でも見たような表情で呟く彼に、異変に気づいた東雲さんが「ん?」と私の影から顔を出す。
途端に「ヒイッ」と顔を思い切り引きつらせ、また数歩程後ずさる彼の視線は、明らかにこの東雲さんに向いていた。
あれ、この反応、まさか東雲さんの方が私に襲い掛かる痴漢に見えた?
それならそれで・・とこのまま彼が踵を返し、逃げて警察へ駆け込むところまで想像したところで、後ろから「日和」という声がした。
「日和(ひより)・・・?」
東雲さんによって普通に発されたその言葉を反芻していると、当の彼は突然ピッと姿勢を正し、我に返ったかのように軽く頭を振る。
そして私たちからわざとらしさ満載にゆっくりと目を逸らし、ポケットに手を突っ込んだかと思うと、空を見ながら口笛を吹いて歩き始めた。
何あの古臭い誤魔化し方・・・
最初のコメントを投稿しよう!