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日暮れとともに遊園地を出ると、瑛士は近くの別荘地へとハンドルを切った。
そこには瑛士の父が生前、事務所名義で買ったペンションがあり、従業員であれば誰でも自由に宿泊ができる。今は紅葉シーズンということもあり、林立するペンションの多くは柔らかな明かりを灯していた。皆、この連休を利用して泊まりに訪れているのだろう。
「久しぶりだな、お前んとこの別荘行くの」
「そうだな、そういえば」
たしか、清島と最後に別荘に泊まったのは、瑛士が検察庁を止める一年ほど前のこと。当時清島が付き合っていた女性と、そして、ひかりの四人で別荘に泊まったのだ。
思えば清島との縁は長い。ひかりの葬儀の際も、喪主を務めた瑛士を傍で支えてくれたのは彼だった。当時、ひかりの親族は皆他界し、瑛士と、ほか大学時代の友人数人で葬儀を取り仕切ったが、彼らに声をかけ、場を仕切ってくれたのも清島だ。
やがて茅野は、見慣れた建物の前で車を止めた。
田舎暮らしが憧れだった瑛士の父が、リタイア後の終の棲家のつもりで建てた二階建てのペンションは、外観は素朴なカントリー風だが、その実、構造自体は丈夫な重量鉄骨造りになっている。その目的は残念ながら潰えてしまったが、今では社員の良き保養所として毎月のように活用されている。この夏も、金本が独身の若手社員を集めてバーベキューパーティーを開いたばかりだ。
ひかりも、このペンションが好きだった。光害が少なく、天体観測にうってつけのこのペンションで、彼女は、愛用の反射望遠鏡でよく星を眺めていた。
その望遠鏡は、今はこのペンションに置かれている。瑛士の住まう東京では星は見えないし、見る暇もない。それに――ここに置いてさえいれば、彼女はいつでも大好きな天体観測ができる。そんな気がする。
「よーし着いた! すぐにバーベキューの支度にかかるぞぉ! ちゃっちゃと動けよガキ共ぉ!」
さっそく後部座席から高校生二人を叩き出す清島を、瑛士はやれやれと見守る。遊園地を出た時点では、無理に挑戦したジェットコースターのせいで完全にグロッキーだった清島だが、もう心配は要らないようだ。
ペンションは、一階にリビングとキッチン、バスルームなどがあり、二階にゲスト用のシャワールームと寝室が設けられている。寝室はツインルームが一つとシングルタイプが三つ。部屋の割り振りは車中ですでに決めてあり、ツインルームを高校生二人が使うことになっている。いずれの部屋も外観と同じカントリー仕様で、随所にウエスタン好きだった父のこだわりが見え隠れしているのが、息子としては微笑ましい。
食事は基本、近くのホテルのレストランで摂るのが基本だが、今回はバーベキューということで大量の食材と炭を持参している。食べ盛りの高校生には、気取ったホテルのディナーよりはやはり肉だろう。
「よーしガキ共、さっそく火を起こすぞぉ!」
肉の入ったクーラーボックスを抱え、テラスに向かう清島に高校生二人もぞろぞろとついてゆく。晃は初めてのバーベキューに興奮しているのか終始うきうきで、亮介も、つまらなそうな顔をしているものの素直に従うあたり満更でもないらしい。遊園地でもそうだったが、清島のことを少し抜けているが心を許せる兄貴分と捉えているらしい。
瑛士に対しては、相変わらず棘のある言動が目立つ。昼間のやりとりの後は特にそうだ。
「そっちは任せていいか」
「おう、助手席でたっぷり休ませてもらったからな」
得意顔で答える清島は、早くもテラスでバーベキューコンロに炭を組み始めている。元ボーイスカウトの清島に任せておけば、下手に瑛士が手を貸すよりも早く準備が済むだろう。
「じゃ、頼む」
とりあえずバーベキューの準備を清島に任せると、瑛士は廊下奥の納戸へと向かった。
埃の臭いがわずかに漂う以外は整頓の行き届いた納戸には、付近で遊ぶための道具が一通り揃っている。釣り道具にゴルフセット、ロードバイクとそのメンテナンスのための道具……そんな中、棚にひっそりと置かれた大きなアルミ製の箱が、ひかりの望遠鏡を収めたケースだ。
蓋を開き、状態を確かめる――問題はない。彼女の家を片付ける際、遺品代わりに引き取った当時の状態を綺麗に保っている。
この大口径の反射望遠鏡は、気温の急激な変化を受けると像が歪んで観測がしづらくなる。外部との温度差によって内部の空気に揺らぎが生じ、それが、レンズで捉えた光を歪めてしまうのだ。この現象を防ぐには、観測を始める数時間前から望遠鏡を外気に晒しておく必要がある。なので、ひかりと天体観測を予定する夜は、ペンションに到着すると真っ先にテラスで望遠鏡を組み立てるのが常だった。
「それ……」
ふと背後で声がし、振り返る。開け放たれた戸口の向こうに、怪訝な顔の晃が立っていた。トイレに向かう途中で立ち寄るかしたのかもしれない。
「あ……ああ、望遠鏡だよ。今のうちに外気に晒しておかないとね。出してすぐに使っても、外気との温度差で像が乱れてしまうんだ」
「……望遠鏡」
不意に晃は瞼を見開くと、額に手を添えてかぶりを振る。
「し……知らない、そんなの……僕のじゃ……」
そう譫言のように呻く晃は、明らかに具合が悪そうに見えた。顔は蒼褪め、声も小刻みに震えている。まさか、今日の無理が祟って……?
「大丈夫? 辛いようなら、寝室に案内するから少し休むといい。バーベキューの準備はあいつに任せておけばいい。しっかり休んで、落ち着いたら後で一緒に星を見よう」
「……星?」
「あ、ああ。この望遠鏡で――」
「嫌です」
「えっ?」
「星とか天体とか……嫌いです。僕は……ひかりさんじゃない」
言い捨てると、晃は弾かれたようにリビングへと走り去っていった。その、次第に遠ざかる足音を聞きながら、瑛士の脳裏にこだましていたのは今の晃の一言だった。
――僕はひかりさんじゃない。
やはり気付いていたのだろう。そして――重荷に感じていたのだ。瑛士の期待を。わかっていた。そうだ、本当はわかっていたはずなのに……
それきり望遠鏡に触れる気にはなれず、瑛士は箱を棚へと戻した。
リビングに戻ると、その奥のテラスでは早くもバーベキューが始まっていた。肉の焼ける香りが部屋の中にも漂い、空腹を持て余す瑛士の胃袋に強烈な揺さぶりをかける。場を仕切るのはやはり清島だ。缶ビールを片手に、金網に次々と肉を投入している。
それでも金網が一杯にならないのは、焼けたそばから肉を片付ける食べ盛りが紛れているからだ。
「ほら食え食え! 高校生は食うのも仕事だ!」
「うす」
次から次へと清島に押しつけられる肉を、その倍近くのスピードで亮介は頬張る。いっそ胸がすくほどの食べっぷりを発揮する友人の隣では、晃が焼けた肉を一枚一枚、念入りにチェックしながら口に運んでいる。幸い、今は顔色も戻って元気だ。
「おっ茅野! 何やってんだよ早く来いよ!」
「お、おう……」
テラスに出ると、とりあえずク―ラーボックスから缶ビールを取り出し、呷る。強烈な酒精と炭酸が喉を焼き、今日一日の疲れが溜息となって身体からこぼれ出る。
相変わらず高校生二人は食べるのに夢中だ。
「おい、まだ生焼けだぞソレ。こっちを食え」
「えー、焦げだらけじゃん!」
「うるせぇ、いいから食え。あと生肉弄った箸を口につけるな」
「う……うるさいなぁもう……」
うんざり顔でぼやきながら、それでも晃は友人の言葉に素直に従う。やはり、何だかんだ言っても亮介を心から信頼しているのだろう。亮介も、そんな晃の信頼に十年近く応え続けてきた。晃のために学び、理解し、努力してきた。そして今度は晃のために医学の道に進もうとしている。
彼らの絆は本物だ。なのに、さっきは随分と出過ぎたことを言ってしまった。亮介も本当は、あれぐらいのことは瑛士に言われなくともわかっているのだろう。なのに、身勝手な感情で随分と酷いことを言ってしまった。
頭上を見れば、天体観測には不向きな月夜。そうでなくとも、今夜はもう望遠鏡を取り出す気にもなれない。
「悪いが清島、今日はもう休んでいいか?」
「えっ、飯は?」
鉄板から弾かれたように顔を上げる清島に、瑛士は苦く笑いかける。
「いや。ビールを飲んだら眠くなっちまって。俺の分の肉はそっちの二人に分けてやってくれ」
言い残すと、瑛士は缶ビールを手にテラスを出て二階に向かった。
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