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――ごめんね、瑛士くん。……ごめんね。
「ぅわっ!?」
びくり身体が痙攣し、その衝撃に目が覚める。そういえば勉強の途中だったことを思い出し、慌てて机に向き直るも、案の定、ノートの上を虚しく視線が滑るばかりで肝心の中身はまったく頭に入ってこない。
また、あの夢――
時計を見ると、すでに時刻は午後の四時を回っている。とりあえず気分転換のつもりで晃は机を立つと、自室を出てキッチンに向かった。冷蔵庫からパック牛乳を取り出したところで、折しも来客を告げるチャイムが鳴る。マンション、それもオートロックのついた集合住宅でいきなり玄関のチャイムを鳴らす輩は警戒されて然るべきだが、この時間のそれは何の心配も要らない。九分九厘あいつに決まっているからだ。
パック牛乳を片手に、リビングにあるモニターのスイッチを押す。画面に現れたのは、案の定、晃の数少ない――むしろ唯一とも呼ぶべき友人、佐伯亮介だった。明るめの茶髪にだらしなく緩めたネクタイ。着崩したブレザー。一見すると不良に見えなくもないが、これでも都内の名門私立高校に通うれっきとした秀才だ。
「今が帰り?」
『まぁな』
「待ってて。すぐ開けるから」
モニターを切り、すぐに玄関へと向かう。ドアを開くと、通学用のボストンバッグを肩にかけた亮介が、晃の顔を見るなり「よぉ」と手を上げた。
紺色のブレザーとパンツが包む、晃より頭一つ高い長身。手足が長く、本人曰く原宿でモデルにスカウトされたことも一度や二度ではないらしい。が、実際、友人の贔屓目を抜きにしても亮介は顔立ちが良かった。はっきりとした目鼻立ちに口角の上がった形の良い唇、きれいな二重瞼に覆われた大粒の瞳は、見栄えだけならテレビや雑誌を飾るアイドルにも決して引けを取らない。
「体調は?」
「大丈夫。問題ないよ」
「そうか」
子供の頃から同じマンションに住む亮介は、テスト期間を除けばほぼ毎日晃の家に顔を出す。仕事で帰りの遅い晃の両親も、自分たちの代わりに息子を見てくれる亮介をすっかり頼りにしているらしい。その亮介は、晃の入院中も頻繁に見舞いに訪れては読み終えた漫画や、板書を写したノートのコピーを持ってきてくれた。今は電車で都心の高校に通っており、昔ほど自由な時間は取れない。それでも、暇を見つけてはこうして会いに来てくれる。晃には勿体ないほど出来た友人だ。――唯一、心配性が過ぎる点を除けば。
「かーちゃんは?」
「まだ」
「あ、そう」
家に上がると、さっそく亮介はキッチンでインスタントコーヒーを作りはじめる。亮介にとって、この家は我が家も同然だ。たかがコーヒー一杯を作るのに、いちいち晃の許可を求めることはしない。
その様子を晃は、リビングのソファから見守る。
「晃は?」
「いい。苦いし」
「ガキかよ」
「う、うるさいなぁ」
コーヒーを作ると、亮介はカップを手に晃の隣に腰を下ろす。その目がふと、コーヒーテーブルに放置されたままのコンビニ弁当の殻に止まった。
「これ、お前が?」
「えっ? ええと……」
曖昧に言葉を濁しながら、また始まった……と晃は内心身構える。恐れていた事態――亮介の心配の虫が早くも騒ぎ始めたらしい。
「何度も言ってるだろ? 調理後二時間を超えた料理には口をつけるなって」
「たっ、食べてみたかったんだから仕方ないだろ? 新作って書いてあったし、それに……コンビニのお弁当を作る工場は、その、ものすごく衛生面に気を使ってるって言うし……」
「具合は?」
「具合? べ、別に何ともない……」
「そうか。けど、もう食うんじゃねぇぞ。こういうのは栄養も偏ってるし、それに塩分も多い」
「……うん」
こんな時の亮介はまるで小うるさい医師か看護師のようで、晃はうんざりする。幼馴染に小言を垂れる暇があったら、彼女の一人でも作ってデートでもすれば良いのだ。が、本人にそのつもりはないらいしく、未だに色恋関係の話は聞かない。見栄えだけで言えば、充分モテる部類だとは思うのだけど。
「わかればいいんだ、わかれば」
そして亮介は、晃の代わりに放置された弁当殻をキッチンに運ぶと、手早く水洗いし、そのままプラスチック用のゴミ箱に放り込む。と、今度はコンロに置かれたままの鍋に目を止めた。
「このアサリの味噌汁は?」
「あ……朝の残り。お母さんが作り置きしてくれたやつ」
「朝、か……。もう食うなよ。アサリには目がねぇからな、お前」
「た、食べないよ!」
そもそも、もう好きでも何でもない。匂いすら苦痛で、コンロに近づくことさえ躊躇っていた程だ。
「そう、じゃあいい」
そして亮介は鍋のものを三角かごに流すと、残飯を袋にまとめて可燃ごみ用のボックスに放り込む。ついでとばかりに空になった鍋を綺麗に洗うと、ようやく亮介はリビングのソファに戻ってコーヒーに口をつけた。
その顔がふと、思い出したように晃の方を振り返る。
「お前、最近調子が悪いんだってな」
「えっ?」
「今朝、お前のかーちゃんとエントランスでばったり会ったんだけど、お前のことすげぇ心配してたぞ。なんか、最近やたら表情が暗いってよ」
「……」
確かに、最近は塞ぎ込んでしまうことが増えた――特に、あの夢を見てしまった日はそうだ。
「何があった?」
覗き込むその目は、口調の鋭さとは裏腹に気遣いと優しさに満ちている。昔からそうだった。この幼馴染は、口こそ悪いがいつだって晃を心から案じてくれる。どんなに些細な相談でも、茶化さず真摯に向き合ってくれるのだ。
「うん……実は」
晃は語った。
例の奇妙な夢のこと。そこで晃は「ひかり」と呼ばれていること。その名を涙ながらに呼ぶスーツ姿の男性のこと……ようやく話を終えても、亮介からの返事はなかった。代わりに、何かを考え込むようにじっと自分の膝を睨みつけていて、こんな時の亮介は本当に見栄えがするな、と、妙なことで晃は感心していた。
やがて亮介は、おもむろに口を開いた。
「ひょっとして……記憶移転、ってやつじゃね?」
「記憶移転?」
すると亮介は、神妙な顔で「ああ」と頷く。
「ドナーの記憶や嗜好、人格が、臓器と一緒にレシピエントに乗り移る現象さ。臓器、とりわけ心臓を移植した際にまれに起こるらしい。移植件数の多いアメリカじゃ、すでに結構な数の事例が報告されているんだと。科学的な原因はいまだに解明されてなくて、そんなものは迷信だって取り合わない医者がほとんどだが……ところでお前、趣味とか食い物の好みだとか、手術の後で何か変わったもんはあるか?」
「好み……あっ」
アサリ。そう、以前はあんなに好きだったアサリが、今は匂いを嗅ぐことさえ苦痛だ。
「ある……っぽいな」
「うん……さっきの味噌汁、食べられなかったんだ。匂いが駄目で……」
「なるほど……ってことは、やっぱドナーの嗜好が移ったんだろうな。記憶移転が起こると、記憶と一緒に趣味や食べ物の好みも引き継がれるケースが多いらしいし……」
「……そんな」
亮介の言葉に晃は愕然となる。
食べ物の好みの変化は正直どうだっていい。自分の趣味趣向が他人のそれに書き換えられる不気味さよりは、むしろ、あの謎の男が実在の人物なのでは、という可能性の方が晃はショックだった。
もし、あの夢がただの夢ではなくドナーの記憶だったのだとして。
夢に現れるスーツ姿の男性は、実在するドナーの関係者――それも、夫あるいは恋人など親しい間柄の人間だったことになる。晃に、たった一つの心臓を遺したドナーの……
「調べてみるか?」
「えっ? 調べるって……」
「だから、ドナーの正体をだよ」
「それは……だ、駄目だよ。というか、無理……」
実を言えば、すでに一度、晃の両親から移植コーディネーターにドナーの身元を問い合わせたことがある。
ところが、返答はノーの一点張りだった。
臓器移植先進国アメリカでは、条件さえ満たせばレシピエントがドナーの情報を得ることは決して不可能ではない。中には、ドナーの遺族とレシピエントが良好な関係を築き、結果として遺族の哀しみを和らげることにつながった幸運なケースもある。が、それはあくまでもアメリカにおける話であり、ここ日本では、ドナーの情報はレシピエントに一切公開されない。まれに偶然知り合うことはあっても、病院が、あるいは移植コーディネーターが両者に情報を開示することは決してない。
晃のケースも同様だった。プライバシーの観点からも、また、無償の善意にもとづく臓器提供の理念に照らしても照会はしかねる、というのがコーディネーターの回答だった。そのせいもあって、今更ドナーの身元を探ることはあまり気が進まなかった。
加えて、晃が提供されたのはドナーの心臓だ。心臓移植は他の臓器移植と違い、臓器の提供はすなわちドナーの死を意味している。そのドナーを特定し、レシピエントを名乗ってドナーの家族――もとい遺族に会うことは、癒えかけた傷を開く無神経な行為と言えなくもなかった。
ところが、そんな晃の不安をよそに亮介はスマホを手に取ると、何やら検索を開始する。
まず亮介が呼び出したのは、大手検索サイトやSNS、ブログ、新聞社が主催するニューサイトのウインドウだ。それらのサイトをかわるがわる見比べながら、さらに新しいウインドウを開いてゆく。
「ひょっとして、ドナーの正体を調べてるの」
「まぁな」
「や、やめようよ……前にもお母さんが、お礼を言いたいからってコーディネーターの人に問い合わせたんだけど、結局断られちゃったんだ……いけないんだよ、多分、こういうことは……」
が、構わず亮介は検索を続ける。晃が困っていると言えば、どんな些細なことも亮介は決して見過ごさない。今も、晃の不安を解消することだけを考えているのだろう。が、こうなることが分かっていて、それでも亮介に相談した晃も晃なのだ。結局、本心ではドナーの正体を知りたくて――
いや。
多分、本当に知りたいのは。
相変わらず亮介は検索に夢中で、とても声をかけられる雰囲気ではない。水を差さないようそっと隣に腰を下ろし、窓の外に目を移すと、いつしか空はすっかり茜色に染まっていた。秋分から半月が経ち、残暑が和らいだ代わりに、ここ最近は随分と日が短くなっている。
秋が来れば、それを追いかけるように冬がやってくる。
昔から晃は冬が嫌いだった。とくに、寒い病室で一人過ごす時間ほど侘しいものはない。慰めのつもりで病室に持ち込まれる玩具やぬいぐるみは、両親や周囲の大人に持て余されている感ばかりが募って、かえって寂しさを際立たせた。
このまま、次の春を待てずに死ぬのかと、冷たいベッドの中でそんなことばかりを考えていた。
「……この人だ」
「えっ?」
慌てて亮介のスマホを覗き込む。表示されていたのは、都内にある某公立科学館のウェブサイトだ。そのスタッフ紹介欄に目を止めた晃は、心臓が大きく脈打つのを感じた。
「星野……ひかり」
間違いない。夢の中の男性も晃をそう呼んでいた。あれが仮にドナーの記憶であり、あの男性が口にした名前がドナーのそれであったなら――その、おそらくは心臓のドナーである星野ひかりは、やさしげな目元が印象的な若い女性だった。長い髪をひっつめ、お世辞にも人目を惹く風貌ではない。が、顔立ち自体は端正で、化粧をすれば見違えるほどの美人に変貌するだろう。専門は天文学。館内の天文コーナーで展示物の監修を行ないつつ、プラネタリウムで解説員を務めている――いや、正確には〝いた〟。
「……事故?」
「ああ」
頷くと、続いて亮介は別のウインドウを開く。現れたのは、大手新聞社のニュースサイトで、その見出しには『事故』の禍々しい二文字が記されていた。
「今から半年前……お前が手術を受ける二日前な。職場に向かう途中、脇見運転中のトラックに撥ねられて……その翌日、病院で脳死と診断されたらしい」
「脳死……」
これまで無意識的に考えることを避けていた事実が、不意に喉元を締め上げる。今の自分の生が、誰かの死によって支えられている事実。その意味と、そして重み。
「……亡くなっていたんだね」
「当たり前だろ。心臓を摘出されてんだから。で、今度はその謎の男とやらだが……」
続けて亮介が開いたのは、トラスト法律事務所と銘打つウェブサイトだった。何故また法律事務所の、などと訝る晃をよそに、亮介は所長の挨拶と記されたバナーをクリックする。
刹那、晃は息を呑む。まさか、こんなことが――
新たに立ち上がったサイトには、所長と思しき人物のバストアップ写真が掲載されていた。年齢は、三十前半か半ば頃だろう。すっきりとした精悍な面立ちと、高い鼻筋に切れ長の眉目。知的に引き締まった唇……一緒だ。乱れのない前髪とネクタイを除けば、夢の中の男性と何もかも。
ありうるのか、こんなことが。
すでに実例があるとはいえ、記憶移転という現象自体は未だに迷信の範疇にある。晃も、こうして〝彼〟の実在を確認するまでは冗談で済ませるつもりだった――が、〝彼〟は確かに実在するのだ。夢の中で晃の、いや、ひかりの死を嘆いたあの人は、確かにこの世に実在する。
「やっぱ、この人なのか」
「えっ? う……うん。間違いないよ」
「そっか。じゃ、これでもう安心だな」
「……安心?」
すると亮介は、こともなげに「ああ」と頷く。
「気味が悪かったんだろ? 毎晩毎晩わけわかんねぇ夢を見せられて。けど、それがドナーの記憶だと分かった以上、別に怖がる必要もないわけだ。違うか?」
「……」
言われて初めて晃は自問する。本当にそれだけだったのだろうか。〝彼〟の正体を求めた理由は――
いや、違う。
そもそも晃は怖がってなどいない。むしろ、彼の嘆きに寄り添うことのできない自分が許せなくて仕方なかった。ただの夢ならそれで済んだのかもしれない。が、あれがドナーの記憶だとわかった以上――ドナーの死を嘆くあの人が実在の人物だとわかった以上、たとえ規則上は無関係を貫くべきレシピエントでも、もはや赤の他人を貫くことは晃にはできなかった。
「僕、この人に会いに行く」
「……は?」
亮介が、何を馬鹿なと言いたげに振り返る。さっきまで散々ドナーの関係者との関わりを拒んでいた晃が、突然その手のひらを返したことにも驚いているのだろう。
それでも晃は、一度生まれた己の意志を曲げる気にはなれなかった。
「会うんだ。会って……ひ、ひかりさんの心臓が、今もこの胸の奥で動いていることを、この人に伝えなきゃ」
「な……何言ってんだよ。お前が言ったんだろ、コーディネーターの許可なくドナーの遺族とレシピエントが接するのは――」
「分かってるよ。分かった上で言ってるんだ」
晃の気迫に押し負けたのだろう、亮介はぐっと息を呑む。
普段、晃がわがままを口にすることは滅多にない。望まずとも病室で周囲の人間に頼らざるを得なかった晃は、いつの間にか従順な子供の演技が板についてしまっていた。ただでさえ自分のために振り回される周囲の人達を、これ以上煩わせてはいけないと――そんな晃でも、しかし、今回だけは引き下がる気になれなかった。
確証はない。でもわかる。僕は、この人に会わなきゃいけない……
「わかったよ」
やがて亮介は、うんざり顔のまま深い溜息をついた。
「けど一人は駄目だ。俺もついていく。いいな?」
「えっ? う……うん」
正直、気は進まない。が、この心配性な友人が折れてくれるのならある意味安い条件かもしれない。そうでなくとも晃には万一の心配がある。出先で突然具合が悪くなった時、頼れる友人が近くにいた方が絶対に良い。
今一度、亮介のスマホを覗き込む。
「茅野……瑛士」
初めて口にしたはずのその名前は、気のせいか、懐かしい響きがした。
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