ただ、大人を演じている

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ただ、大人を演じている

 裁判を終えて法廷を出ると、つい今しがたまでやりあっていた清島が慌てて追いすがってきた。 「何だ、さっきの仕返しか?」  すると清島は、子供のようにむすっとくちびるを尖らせる。またしても瑛士に負け越してしまったことを当人に揶揄され、さすがにムカついたのだろう。 「ちげーよバカ。そもそも俺は負けてねぇ。負けたのは、ろくな証拠も集められなかった警察連中だよっ」  やれやれ、と瑛士は溜息をつく。相変わらず負け惜しみの強い男だ。が、すぐ他人のせいにして自分は悪くないのだと開き直る図々しさ、もといメンタルの強さは、正直、羨ましいと瑛士は思っている。 「で、何の用だ」  すると清島は、わざとらしく肩をすくめてみせる。バタ臭い顔立ちのせいか妙に様になっているのが余計に鬱陶しい。 「立ち話も何だ。場所を移そうぜ」 「長くなるのか」 「んだよ、お前と俺の仲だろ。つれねぇな」 「……わかったよ」  助手の金本に、先に事務所へ戻るよう告げると、瑛士は清島と並んで裁判所を出た。  早くも秋は終わりへ差しかかり、日比谷公園の木々はすっかり赤や黄色に色づいている。それが澄んだ青空の下、きらきらと日光を照り返し、実に鮮やかな秋模様だ。そんな中、頬を掠める風は早くも冬のにおいを纏っている。ハッカに似た、すんと鼻腔に沁み入る清冽な匂い。  やがて二人が辿り着いたのは、日比谷公園近くのカフェだった。さっそくカウンターでそれぞれコーヒーを頼む。清島はホットコーヒを、そして瑛士は、例によってホイップ増し増しのラテを。  やがて、受け取りカウンターから差し出された商品を見た清島が、げっ、とあからさまに嫌そうな声を上げる。 「お前なぁ、歳を考えろ歳を。んなもん飲んだらデブまっしぐらだぞ? 全国のお茶の間におわします茅野瑛士ファンが見たら泣くぞ?」 「知らん」  セルフカウンターに移り、シナモンとはちみつをぶちまける。清島に言われるまでもなく、こんなものを飲み続けていればいずれ太るだろう。が、その点は週三回ペースのジム通いでどうとでもカバーできるし、そうでなくとも……ひかりを亡くしてから、瑛士は体重が十キロも落ちた。おかげで以前仕立てたスーツがだぼついて見える程で、今は、むしろ余分な肉をつけた方が良いぐらいだ。  思えば、ひかりを亡くしてから瑛士はほとんど食事を口に出来なかった。美味いも不味いも等しく苦行で、水以外は何も入れずに一日を過ごしたこともある。所員や清島には伏せているが、点滴を受けに病院に足を運ぶこともざらだった。  そんな中、伊勢谷晃と摂る食事だけは普通に味わうことができた。  理屈はわからない。ただ、彼と摂る食事だけは当たり前に味がした。単に、目の前で美味しそうに食事を頬張る食べ盛りに感化されたせいかもしれない。が、ともあれ晃との食事は美味しかった。日常の他愛ない出来事を語りながら摂る食事は。  だから突然、晃と連絡が取れなくなった時は柄にもなく焦った。  今から半月ほど前、晃と一週間近く連絡が取れなくなったことがある。通信高校の課題で忙しいのかと思ったが、それでも、一通も返信が来ないのはおかしい。何か気に障ることでも言ったのか――が、いくら思い出しても思い当たる節はなく、結局、迷惑と知りつつ晃のマンションまで会いに行った。  幸い、偶然マンションから出て来た晃とすんなり会うことはできたものの、理由らしい理由は聞き出せず、代わりに、思いがけず思春期特有の甘酸っぱい感情に触れる羽目になった。  自分が、彼に必要とされていない事実にも。 「で、あの子との仲はどうなってる?」  清島の声に瑛士は我に返る。何だか心を見透かされた気がして「別に」とつれなく答えると、瑛士は目についた窓際のカウンター席に適当に腰を下ろした。  そんな瑛士の隣に、清島も並んで腰を下ろす。 「別にって何だよ別にって。前はあんなに熱心に傍聴に来てたのに、最近はぱったりじゃねぇの。俺、割と本気で心配してんだけどぉ?」 「忙しいんだろ……色々と」 「あっ、ひょっとしてフラれた? まぁ仕方ねぇわな。高校生からすりゃ俺達、もう立派なオッサンだもんなぁ」 「だから、女の子じゃないと何度言えばわかる」  どうやら清島は、晃のことを相変わらず女の子と思い込んでいるらしい。  確かに、晃は愛らしい少年だ。見た目はもちろん、仕草や表情の一つ一つが食べたくなるほど愛おしい。が、本当の魅力はそこにはないと瑛士は思う。今この瞬間を全力で生きる強さと健気さ。それが、彼の魅力の本質だ。  ――初めて打ったんです。ボール。  そう、上擦った声で打ち明ける晃の紅潮した頬が、涙に滲む大粒の瞳がことあるごとに脳裏にちらついてしまう。そのたびに記憶の中の彼を抱きしめたくなる衝動に駆られ、それが叶わない現実に苛ついてしまう。  ここ数日は、そんな馬鹿なことの繰り返しだった。 「言っとくが、あの子に星野の面影を求める真似だけはするなよ」 「す、するわけないだろ、んなこと……」 「おっ、逆転の貴公子様が珍しく動揺か? うひひ」  にやにやと下世話な目で覗き込む清島に、瑛士はあからさまに顔を顰める。が、指摘自体はあながち的外れでもない。ひかりの記憶を持つ晃に、悪いとは知りつつ彼女の面影を求めていることも事実だ。  わかっている。ひかりは、もう帰らない。それでも…… 「こんなところで俺を揺さぶってどうする。やるなら法廷でやれ法廷で。まぁ、できるならの話だがな」  他人に言われるまでもなく、罪作りの自覚は、ある。そのつもりで突っ撥ねれば、またしても清島はむぅと唇を尖らせた。 「やっぱ可愛くねぇな、お前」 「三十路の男に可愛さを求めるな、馬鹿」 「ちぇ」  うんざり顔で唇を尖らせると、清島は半分ほどに減ったコーヒーにたっぷりのミルクと砂糖を加える。最初はブラックで味わい、後半はミルクと砂糖を加えて飲む。大学時に知り合った当初からの馴染みの飲み方だ。  それをマドラーでゆるくかき混ぜながら、清島は続ける。 「まぁぶっちゃけ、それでお前の傷が癒えてくれるンなら別にいいんだ。あの子には悪いけどな」 「べ、別に俺は、傷なんか――」 「何言ってる。ボロボロじゃねぇか、お前」  カップをステアする手を止め、清島は振り返る。法廷で対峙する時よりもなお鋭い双眸が、すいと瑛士を射抜いた。 「ボロボロなんだよ。お前はな、お前が思う以上に深く傷ついてんだ。……星野の葬儀で、お前、一度も泣かなかったろ」 「あれは……仕方ないだろ。彼女には他に身寄りもなくて、それで、俺が喪主を……だから……」 「じゃ、その後は?」 「……泣けば、ひかりは生き返るのか」  事実――ひかりが事切れたあの日を除いて瑛士は泣かなかった。  泣けば誰かが我儘を叶えてくれる幼子ならともかく、大の大人が泣きたくなるのは大抵、泣いたところでどうにもならない事象に対してだ。その意味で、大人の涙に価値などない。たとえ、この身が干からびるほど泣いたところで、ひかりは決して生き返らないのだ。 「ほら、それだよ。――まぁ、お前のそういうところも嫌いじゃないけどな」  そして清島は、残りのコーヒーをぐっと呷った。  そんな清島の、一見すると無神経にも思える挙措言動に、しかし、瑛士は確かに救われている。思えば、清島が頻繁に瑛士を食事に誘うようになったのもひかりの一件がきっかけだった。それまでは検察官という立場上、瑛士との余計な馴れ合いはむしろ避けていたように思う。  手元のカップに目を落とす。注文はしても一向に減らないホイップクリームの山。本当は、こんな甘ったるいだけの品は飲みたくもない。なのに毎度頼んでしまうのは、ひかりの面影に縋りたい無意識がそうさせるのだろう。  終わらせなきゃいけない…… 「……どうすればいい」 「そういうお前はどうしたいんだ?」 「質問を質問で返すな。真面目に訊いてるんだ、俺は」 「わかってるよ。俺だって真面目に答えてんだ」  実際、清島の口調に茶化すそぶりはない。――が、改めて自問するも、上手い答えが見つからない。普段、仕事で散々言葉を弄する自分が、肝心の自分のこととなるとまるで無力だった。それが、今はひどく滑稽で、もどかしい。  ただ、一つだけ。  はっきりと口にできる願いが瑛士にはあった。 「あの子の……」 「あの子? 晃くんの?」 「ああ。彼の幸せを……新しい人生を見守ることができたなら、それだけで……」  ボールを打ち返し、生まれて初めての経験に感極まる晃を、瑛士は心の底から愛おしいと思った。そんな彼の〝初めて〟に、これからも立ち会うことができたなら、それは、間違いなく瑛士の心を救ってくれるだろう。 「なるほどねぇ」  何を納得、いや思いついたのだろう、咥えたマドラーをぶらぶらさせながら清島は頷く。 「要は、あの子をハッピーにしたいわけだな?」 「またえらく雑にまとめたな……まぁ、大体そんなことろだ」 「そういうことなら、よし、俺チャンに任せろ! 晃くんが最高にハッピーになれるプランを用意してやる!」 「は? ……プラン?」  ふと、嫌な予感が背筋をよぎる。  大学時代、清島が幹事を務めるゼミのコンパでは必ず何かしらのトラブルが起こった。予約したはずの席が取れていないのはむしろデフォルトで、倍の人数の料理を予約し、急遽隣のゼミを呼んで事なきを得たこともある。トラブル処理に追われるのはいつも茅野で、その関係は共に検察庁に入った後も続いた。 「や、やめてくれ清島。お前が絡むと碌なことが、」 「いいから任せとけって! だぁいじょうぶ! 幹事としての俺の実力ならお前もよぉく知ってるだろ?」  よぉく知っているからこそ反対しているんだ、とは、さすがの瑛士も口にはできなかった。実力はともかく、やる気と厚意だけは本物だったからだ。
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