僕の中のもうひとつの恋心

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 スコープ越しに見た初めての銀河は、正直に言えばさほどの感動も晃に与えなかった。  天文雑誌を飾る銀河の写真は、どれも宝石のような鮮やかさで晃を魅了した。が、実際にスコープ越しに目にする銀河は、漆色の空にわずかに浮かぶ小さな霞の塊に過ぎなくて、晃はリアクションに困ってしまう。 「どうだい?」 「はい。でも……何だかもやっとして、その……」 「ははっ。まぁ実際に望遠鏡で銀河を見るとね、大抵そんなものだよ」  そう苦笑する茅野に、晃は申し訳ない気持ちになる。満天の星空にうっすらと浮かぶシミのようなこの天体をスコープに捉えるのは並大抵の苦労ではなかった。それでも、晃のためにと座標をセッティングしてくれたのは茅野だ。  その苦労の代償が、こんな薄いリアクションでは茅野も張り合いがないだろう。 「雑誌を飾る綺麗な銀河の写真はね、同じ銀河を撮影した写真を何枚も何枚もパソコン上で重ねてようやく出来上がるんだ。フィルム時代は何時間もフィルムを露出させて撮影していたらしいんだけど、光を蓄積させる点では似たような原理かな」 「ってことは、あの綺麗な写真も元々はこんな靄だったわけですか」 「靄……そうだね。けど晃くん。その小さな靄の中で、数千億個もの恒星が輝いていると知ったら君は驚くかい?」 「え……」  恒星とは、太陽のように自ら輝きを放つ天体のことだ。そんなものが、この小さな靄の中で数千億個も輝いている。こんな千切れ雲のような靄の中で。 「こんな薄暗い靄の中に、太陽みたいな星がそんなに……」 「ああ。本来は眩しくて堪らないだろうね。けど、それだけ眩いはずのものも、さすがに一千二百万光年も隔てるとただの霞と変わらなくなる。あまりにも膨大な距離と時間が、本来の輝きを失わせてしまうんだ……想い出みたいに」  そして茅野は静かに夜空を仰ぐ。きっと、ひかりのことを想い出しているのだろう。  時に忘れることは、忘れられること以上に寂しいのだと何かの本で読んだことがある。鮮やかなはずの想い出が、胸を裂く感情が、時とともにゆっくりと霞み癒えてゆく。その寂しさ、やるせなさはきっと、それを知る者にしかわからない。晃に出来るのは、そんな茅野の心に、寂しさに寄り添うこと――それだけだ。 「寒くなってきたね。そろそろ部屋に戻ろうか」 「えっ、は、はい……」  リビングに戻ると、茅野は食洗器から乾燥を終えた皿を取り出し食器棚に戻した。天体観測に先んじてのディナーは、茅野お手製のオムライスで、てっきり小洒落た料理を出されるものと身構えていた晃は逆に少し安心した。味も家庭的で、少なくとも料理サイトで付け焼刃に仕入れたレシピには見えなかった。普段キッチンに立つことの少ない茅野が何故こんな料理を、と歓談がてらに訊くと、昔ひかりに習ったんだと、ばつが悪そうに茅野は答えた。  彼女と付き合う前の茅野は、本人曰く、趣味といえばたまにバッティングセンターで憂さを晴らすだけのつまらない人間だったという。そんな茅野に、この世界の美しさ、面白さを一つ一つ触れさせてくれたのが彼女だった。この天体観測もその一つだ。  そんな茅野に、今度は晃が世界の美しさを日々学んでいる。茅野が星野ひかりに出逢わなければ、今のような茅野と晃の関係もなかった。その意味で、今は嫉妬よりも感謝を彼女に対しては抱いているし、だから、今更彼女の名前を出されたところでへそを曲げる晃ではないのだけど、茅野には茅野で思うところがあったのだろう。  そんな茅野を横目に、晃はレンジで牛乳を温める。カップは二つ。自分と茅野の二人分。やがて温めが終わると、両手でカップを取り出し、一つを茅野に差し出す。 「ああ、ありがとう」  そして茅野は、例によって念入りに中身を冷ましてからカップを啜る。その愛らしく尖ったくちびるに、夕刻の動揺と不安とを思い出して晃は少し落ち着かなくなる。  一方の茅野は相変わらず寛いだ表情で、これという緊張は見られない。時刻は、すでに夜の十一時を超えている。やはり今夜は、このまま何事もなく終わるのだろうか。それはそれでほっとしてしまう自分は、恋人としてはやはり失格な気がする…… 「今日は考え事ばかりだね。何か悩み事?」 「えっ、い、いえ……」  慌てて目を伏せ、顔を逸らす。言えるわけがない。こんなことで悩んでいると明かせば、ともすれば茅野への愛情を疑われかねない――  いや、違う。  本当は、暴かれるのが怖いのだ。晃がこの二年半、密かに抱き続けた罪の意識を。 「亮介くんになら、話せるのかな」  ふと茅野は溜息まじりにそう零す。どこか突き放すような声に、しまったと晃が顔を上げれば、シンクに緩く腰を預けたままこちらを見下ろす茅野と目が合った。  その顔は、相変わらずにこやかに微笑んでいる……が、そのくせ纏う気配は妙にひりついて、いつになく苛立っているのがわかる。だったら、自分で自分の苛立ちに火を注ぐ真似はしなくて良いのだ。ただでさえ茅野は、二人の会話に亮介の名が出るのを嫌っている。晃も、だから普段は亮介の話題を極力出さないよう気を遣っているのに。  まるで拗ねた子供だ。茅野とは最も縁遠いはずの子供じみた言動。  ところがその茅野は、悪びれる様子もなく、むしろ開き直ったように続ける。 「悪いね。これまでは、未成年とお付き合いをさせてもらう以上、恋人である前に大人としての振る舞いを優先してきた。……けど、すでに君自身もいい大人だ。甘やかしてくれとは言わないが、僕のこういうみっともない一面も、今後は許容してもらえると助かるよ」  そんな無茶苦茶な話を、まるで業務連絡のように告げるから、晃としては何も言えなくなる。……いや、無茶ではないのかもしれない。これが、本来の恋人としての在り方なのだろう。これまでは、単に子供だからと容赦されていたことを今後はしっかり努めてもらうと――裏を返せばこれは、晃を大人として認めた言葉でもあるのだ。  それはそれとして、自分の醜い部分を素直に晒せてしまう茅野は、やはり本物の大人だと晃は思う。晃の方は……もうずっと尻込みしているのに。 「りょ……亮介は、大事な親友です。悩みがあれば、そりゃ、聞いてもらいますけど……茅野さんとのことは、さすがに」  実際、茅野とのことは亮介には一切相談しない。これは、茅野のためというより、むしろ亮介のためだった。晃のために、自分の想いを殺してまで茅野への告白を後押ししてくれた亮介を、これ以上、傷つけたくなかったのだ。 「つまり、それは僕絡みの悩みってこと?」 「ええ……あっ」  しまった、と晃は口を噤む。先程の言葉は、文脈上そのように打ち明けたも同然だ。  そんな晃の頬を優しく撫でる、節張った大きな手。乾いて、少しごつごつとした肌触りは紛れもなく大人のそれだ。 「二人のことは、二人で解決しなきゃ。ね?」  とくん。  胸の奥で、心臓が返事をするように軽く跳ねる。ああそうだ、彼女も、かつては茅野とそうやって―― 「……するんですか」 「えっ?」 「せ……成人になって、初めての、お泊りだからその……」  その言葉に、ふと、晃の頬から茅野の手の感触が消える。  ふしだらな人間だと思われただろうか。無理もない。今の言葉は、要するにセックスがしたいと言い出したも同然だ……いや、恋人ならこれぐらいの要求はむしろ自然だろう。わざわざ晃に、これからは大人同士の関係を築きたいと宣言するほどだ。要求自体は別におかしくは――と思った矢先、今度は顎を掬われ、くちびるを奪われた。  これまでのキスでは軽く触れるだけだった茅野のくちびるは、この時、初めて舌ごと絡めてきた。 「ん……っ、」  ありえないほど深い口腔の奥を、茅野の舌先がまさぐる。自分の体内を探られ求められる未知の感触に身を竦めながら、これが大人の愛し方、愛され方なのだと晃は必死に自分に言い聞かせる。  そうだ、大人にならなきゃ……この人と吊り合うためにも。  やがて、ようやくキスが解かれる。散々混ざり、絡み合った唾液が二人の舌をつぅと結んで、晃は乱れた息を整えながら、その淫らな糸をうっとりと見つめた。  そんな晃の意識は、しかし、茅野の次の言葉で現実に引き戻される。 「ひょっとして、同性だから拒まれると思った?」 「えっ……」 「だから悩んでいたんじゃないの。違う?」 「……」  答えの代わりに、晃は小さく被りを振る。同性がNGだと言うのなら、そもそも茅野は男の晃と付き合ってすらいないだろう。茅野は善良な人間だが、表面的な善意ではてこでも動かないし、一時の情にも決して流されない。その茅野が受け入れてくれた以上、今更その手の不安はない。何より、今の蕩けるようなキスがそうした懸念は杞憂だと告げている。  不安は、もっと個人的な部分にある。だからこそ晃は、この不安に独りで向き合うしかなかったのだ。  カーディガンを脱ぎ捨て、続いてカッターシャツのボタンを外す。全てのボタンを解いたところで前を開き、肌着の裾をたくし上げる。  胸板にひたり貼りつく夜気にぶるっと身を震わせる。が、それよりも今は、胸の傷跡に突き刺さる茅野の視線が辛かった。   「……醜いですか」  目を伏せ、そう問うた。茅野の顔を直視する勇気はなかった。 「僕は、醜いと思います。だってこれは……僕が、ひかりさんの心臓を奪った証だから」  因果が逆転しているのは百も承知だ。それでも、あの頃の自分の願いが彼女を殺してしまった気がするのは、それほどに強く、強く願い続けたからだ。 「あの頃、僕は毎日願っていました。誰でも構わない、とにかく、健康な心臓を譲ってほしいと……でもそれは、誰かの死を願うことでもあったんです。それで、ひかりさんが……わかってます。わかってますよ。僕の願いとひかりさんの死は何の関係もない。それでも……時々思ってしまうんです。僕の願いが、ひかりさんを殺してしまったんじゃないか、って……この傷は、そんな僕の罪の証なんです。だから……」  返事はなかった。沈黙が二人を包み、壁の時計の秒針がカチ、カチと鳴るのがやけに耳に障った。すでに夜も更け、近隣のペンションでも宿泊客が眠りに就き始めているのだろう。風もなく、空気自体が淀んだように静止している。 「そんなことを悩んでいたのか」  ようやく茅野が口を開く。溜息交じりのその声は、呆れとも怒りともつかない不穏な音を帯びていた。……が、晃にしてみれば大切なことだ。そもそも茅野は、事実、この傷のために晃を一度拒んでいる。 「か、茅野さんも、本当は思っているんでしょ。気持ち悪いって……見たじゃないですか、そういう目で……」  本当はずっと、ずっと不安だった。  こんなにも醜い自分が、茅野と関係を続けても構わないのか。そのくせ自ら身を引く度胸もない晃は、この傷を茅野の目に触れさせずに置くのが精一杯だった。デートでは海やプールを避け、茅野と会う時は喉元まで隠すタートルネックのセーターか、さもなければスカーフを巻いた。  そんな自分が、今更こんな理屈で茅野を責めるのは筋違いだ――でも。  それでも不安で怖くて。  だから、どうしても確かめずにはいられなかった。 「あれは……夢じゃなかったんだな」 「……夢?」  問い返す晃の頬を、節張った指がそっと撫でる。その指先に拭われて初めて、自分が涙を流していることに晃は気付いた。そういえば、目の前にあるはずの茅野の顔が、今はひどくぼやけて見える。 「夢を見たんだ。ひかりが、僕のもとに帰ってくる夢を……なのに、その正体が途中で君だと気付いて……ショックだった。別人であるはずの君に、彼女の面影を求めてしまう自分が心底憎らしくなった。あの後、しばらく君からの連絡を無視していたことがあっただろう。あれは、君に会うのが申し訳なくて……そうか、あの晩俺が見たのは、夢じゃなく本物の君だったんだな」  澄んだ双眸が、まっすぐに晃を見つめる。――嘘ではない。そもそも茅野は、冗談以外の嘘は決して口にしない。 「誓って言うが、俺はその傷を拒んだわけじゃない。ひかりのつもりで求めた相手が君だったことに驚いただけなんだ。……けれど、そのことで君を傷つけてしまったのは事実だ。だから……謝罪するよ。あの時は、本当にすまなかった」  茅野の手が、頬から胸の傷へと移る。その慈しむような手つきは、言葉よりもなお雄弁に茅野の愛情と悔恨を晃の肌に伝えた。 「これは……勲章だ。運命に抗い、勝利を勝ち取った君の、何よりも誇るべき勲章だよ」 「……勲章」 「ああ。そして……彼女が、ひかりが生きた証でもある」  生きた証――ああ、そうか。  目が覚めた気分だった。彼にとってこの傷は、かつて愛した人が生きた証でもあったのだ。その証を、あの茅野が拒むはずもなかった。なのに自分は、勝手に怯えて、疑って。 「……ごめんなさい」  心からの謝罪の言葉が喉から零れ出る。愛する人を疑ったことはもちろん、彼の愛情の深さ豊かさを完全に見縊っていた。  そんな愚かな恋人を、返事の代わりに茅野はそっと抱き寄せる。その、広く温かな懐に包まれると、それだけで晃は新たな涙が止まらなくなった。 「彼女の死は、君とは何の関係もない。むしろ君は、彼女の想いを未来に繋いでくれた。……感謝しているんだよ」  そっと腕を解かれ、吐息が触れ合う距離で見つめ合う。優しく包み込むような眼差しに引き込まれるように伸び上がれば、応じるように茅野もくちびるを寄せてきた。  今度のキスは、軽く触れ合うだけで留まる。が、それが却って晃の中に新たな熱を生む。焦燥と期待、それからもっと、危険な―― 「参ったな」  そんな晃の鼻先で、茅野が照れたように苦笑する。 「怖がらせるのは悪いと思って、今夜はキスで留めるつもりだったのに……」  そして茅野は、今度は一転して熱っぽい眼差しで見つめてくる。晃も、もはや子供ではない。茅野が敢えて濁した言葉の先も、その瞳が訴える欲望も、全てを受け入れる覚悟はすでに出来ていた。
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