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さよなら、もう一つの恋心
肌寒さに引き戻されるように瑛士は目を覚ました。
昨晩の疲労が残る身体を引きずるように身を起こせば、早くもカーテン越しにうっすらと光が差し込んでいる。
遠くで鳥の声が聞こえる。これはカッコウだろうか。
「ん……え、じさ……」
むずがるような声が耳朶をくすぐって、ふと瑛士は目を落とす。未だ眠りの中にいる恋人が、瑛士の隣で穏やかな寝息を立てていた。
長い睫毛が小刻みに震えているのは、何か夢でも見ているのだろう。ただ、それが決して剣呑なものでないのは、うっすらと微笑むような寝顔が証明している。
「……晃」
指先で、そっと晃の寝顔を撫でる。頬も目尻も、今はさらりと乾いている。が、よく見ると涙の痕が筋となって残り、昨晩の熱情が幻ではなかったことをひそやかに伝えていた。
そんな晃の幸福に満ちた寝顔に、ふと、瑛士は罪悪感を覚える。
この二年半、彼に注いだ愛情は紛れもなく本物だった。一方で瑛士は、ひかりとの想い出を忘れることもできなかった。彼女と重ねた日々が刻一刻と遠ざかることが悲しくて、新しい朝を迎えるのが怖かった。
そして、この朝も――
そっと晃の肩に腕を回し、ぬくもりごと抱き寄せる。
わかっている。この問いに答えなどない。瑛士自身が考え、辿り着く以外にこの葛藤から逃れる術はないのだ――が、だとしても、せめて晃にだけは恋人として当たり前の愛情を注ぎたいと思う。この無垢な恋人が、瑛士の苦しみに付き合う義理はどこにもないのだ……
それでも、否、だからこそ。
晃の安らかな寝顔を見つめていると、どうしても不安になる。自分は、彼にふさわしい恋人たり得ているのか。心から求め合い、愛し合う資格はあるのか。ともに同じ幸福を求める資格は……
その時、ふと晃の瞼が開いて、しばし寝惚けたように茫然と周りを見回した後、瑛士の顔を見つけて目を止める。ひょっとして、起こしてしまったのだろうか――そう懸念する瑛士に、晃はふんわり微笑むと、言った。
――幸せにね、瑛士くん。
そしてふたたび瞼を閉じると、何事もなかったように寝息を立て始める。そんな晃の寝顔を見下ろしながら、瑛士が思い出していたのは、初めて晃と出会ったあの日、彼が見せた不可解な言動だった。
あの時、晃は今と同じように瑛士を「瑛士くん」と呼んだ。まるで生前のひかりそのままに。ただの勘違いだったのか、あるいは本当に、心臓に残るひかりの魂が晃の口を借りて発した言葉だったのか。
正しいことは何もわからない。ただ、これだけははっきりしている。出会った当初から、彼女は、ひかりはそういう女性だった。いつだって相手の幸福を第一に願い、他人のために心から涙し笑える人だった――だからこそ瑛士は彼女を愛したのだし、亡くした後も想い続けたのだ。彼女の善性を、魂の輝きを、過去に置き去りにしたくはないと。
でも。
その足掻きも、ただ彼女を苦しめるだけのものだったとしたら。
「ひかり……」
ふたたび晃を抱き寄せ、今度はその心臓に顔を寄せる。白くなめらかな胸板の奥で脈打つ鼓動に耳を傾けながら、瑛士は今一度、かつて愛した女の名を呼んだ。そして――告げる。
「ありがとう」
それは、感謝と同時に訣別の言葉でもあった。晃と幸せになることが彼女への弔いになるのなら、この日、この瞬間に彼女との日々の全てを置いてゆこう。
彼女への想いが過去に霞むのを恐れずに。
ただ一人、晃の手を取りながら未来へと歩いてゆこう。
乱れた布団を晃の剥き出しの肩に掛け直すと、瑛士はベッド脇の窓にかかるカーテンを開き、朝の光を部屋に招いた。
晃の名前は、漢字で日の光と書く。
朝焼けと共に儚く消えた星の代わりに、瑛士に新しい朝をもたらした恋人の名前が『晃』だったのは、出来の良い偶然か、それとも運命か。
正直、どちらでも結構だと瑛士は思う。
いずれにせよ、今の瑛士にとっては晃こそが新しい朝であり、未来であり生きる理由なのだから。
「愛してる」
今一度、晃を強く抱き寄せ、囁く。今も腕の中で息づく命を感じながら、もう二度と、朝を恐れることはないだろうと瑛士は思った。
晃とともに歩き続ける限りは――
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