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その後、留蔵の身に奇妙なことが起こるようになった。
件の堀の傍を通ろうとすると、
おいてけ‥‥
おいてけ‥‥
と、不気味な女の声がする。
この声は留蔵にしか聴こえないらしく、しかも、夜半にしか聴こえない。
おいてけ‥‥ おいてけ‥‥
女の声が追いかけてくる。
声の正体がお駒だと、留蔵には判った。
この堀をやっとの思いでやり過ごし、留蔵は家に帰ってきた。
背筋に冷たいものを走らせながら、布団にもぐって行燈の明かりを消す。
すると、天井を、
とんとん、
とんとん、
と、なにか軽いものが走りまわる音がしたかと思うと、暗闇のどこからともなく血まみれの細い足が、す、と現れる。
脚を洗え‥‥
血を洗え‥‥
かすかに震える女――お駒の声が聴こえる。
そのうちに、手首と足首が、ぼとりぼとり、と天井が降ってくる。
留蔵の布団の上を手首と足首が転がる。
あまりの恐怖に、布団を頭まで被るが、お駒の恨みの声は頭のなかに直接、響いてくる。
「お駒、お駒――許してくれ、お駒――」
留蔵は布団のなかで震える。
脚を洗え‥‥ 血を洗え‥‥
おいてけ‥‥ おいてけ‥‥
恨めしそうな声が、しずしずと降ってくる。
その声から逃げるように、留蔵は布団をはね除け、家の外に飛び出した。
おいてけ‥‥
血を洗え‥‥
声が追いかけてくる。
留蔵は、件の堀までやってきた。
息を切らして堀に向かって叫ぶ。
「お駒、お駒――許してくれぇ!」
一瞬、水面が赤く揺らいだ気がした。
翌年から、件の堀の周囲に生い茂る葦は、片方の葉しか付けなくなり、月が白く美しい秋のとある晩には、水面の一部だけが赤く染まるようになった。
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