1人が本棚に入れています
本棚に追加
ひたん、と音が聞こえた。
目を瞬かせる。ぼんやりした頭に差し込むように、妙にクリアな音であった。
ひたん、と、もう一度。
シンクを水滴が叩いたような、湿り気を帯びた音。水道の締めが甘かったのだろうか。面倒くさいが、このまま放置するのもしのびない。起きあがろうとして、はたと気づいた。
音の聞こえる方向が、おかしい。
キッチンは、ソファの奥側にある。水道の締め忘れであるならば、自分の後ろから聞こえてくるはずだ。けれど、この音は、自分の前方から聞こえるように思える。
恐る恐る半身を起こすと、そこに、いた。
ロフトの真下に、誰かがいる。人だ。暗い顔をした、まだ若い男性が立ちすくみ、天井をじいと見上げている。
心臓がはねた。急激に温度が下がったような気がした。誰だ、と叫ぼうとして、息を呑んだ。
手が、長すぎやしないだろうか。
立っているにも関わらず、両脇の手はだらりと床に落ちているのである。その長い手を振り上げて、男はひたん、と天井を打った。そのままゆっくりと手をおろすと、もう一度振り上げて、天井を打つ。
ひたん、ひたん、と音が響いた。
いっそ機械的と言ってもいいくらいの緩慢さで、男はその行動を繰り返す。目が離せなかった。目を逸らしたら、悪いことが起きる気がした。動くこともできず、浅く息を紡いでると、電池が切れたかのような唐突さで、ふ、と男が手を止めた。そして長い手を引きずりながら、玄関をすり抜け、外へと出て行ったのである。
その日のうちに引っ越しを決めた。不動産屋は何も言わなかった。ロフトに敷きっぱなしにしていた布団をどけて、息を呑んだ。
布団の裏に、赤黒い掌の跡――。
もし、今日もロフトで寝ていたら、自分はどうなっていたのだろう。
耳の奥で、ひたん、と音がした。
最初のコメントを投稿しよう!