第1章 冷めたコーヒー

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「シャワー浴びてくるね。」 束の間の静寂を破ったのは実果子だった。 いつもなら拾われたばかりの子犬のように付いてくる恭也だったが、沈黙に飲み込まれたようにソファに沈んでいる。 (遅かったか。) 実果子は子犬のように懐く恭也を突き放すタイミングが遅れてしまった事を後悔していた。 無言のまま実果子はリビングを後にし、少し熱めのシャワーを浴びながらぼんやりと考えていた。 恭也は近くに住む高校生だった。 この春から大学に通っている。 毎朝、同じ橘駅で電車に乗り込んでいた。 ある朝、パスケースを落とし駅員室に行くとそこにパスケースを届けに来た恭也がいた。 最初は気にも留めていなかったが、そのうちに互いに挨拶をするようになり、いつしか恭也は実果子の姿を見ると嬉しそうに駆け寄るようになった。 「実果子さんの名前って美味しそうで俺好きだな。」 恭也はニコッと笑いながら言った。 恭也は実果子を知りたがった。 実果子はそれなりに線を引いていたつもりだったが、恭也は柵で仕切られても柵に手をかけ尻尾を振る犬のように実果子に懐いていた。 「そんなこと言う人恭也くんで二人目。」 実果子は思わず笑った。 「古臭くてあんまり好きじゃないのよ、この名前。でもそう言う風に言われると悪くない気もするわ。」 「あ、笑った!やった!実果子さん全然笑ってくれないから、もしかして迷惑かなとか思ってたけど、俺って迷惑ですか?」 尻すぼみに聞いてくる恭也はつり革を持つ手に頭を乗せ下を向いている。 可愛いと思ってしまった。 実果子はためらいがちに 「そんなことないよ。」 と言った。 シャワーの蛇口をキュッと締め、浴室を出た。 体を拭いてリビングに戻ると恭也はソファで眠っていた。 冷めたコーヒーがカップに残っている。 実果子は眠る恭也の前にしゃがんで声をかけた。 「恭ちゃんもシャワーしといで。こんな格好で寝てたら風邪ひいちゃうよ。わたし用意したらジム行くから。」 起きる気配のない恭也の顔をみて溜息をついてから実果子はブランケットをかけてやった。 身支度を済ませた実果子は恭也をもう一度起こそうとしてやめた。 そのかわりに紙とペンを手にして (ジムに行くから帰りに鍵お願いね。鍵は下の郵便ポストに。) と書いてスペアキーを置いた。 冷めたコーヒーを見て実果子は (コーヒー冷めちゃってるよ。) と付け足し、リビングを出ていった。
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