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黒い影が居る部屋
「ただいま・・・」返事が無いとは知りつつも,怜は玄関を開けると同時に誰も居ない廊下の奥へ声をかけた。
帰宅を告げる挨拶など,最後にしたのはいつだろうか。
颯太と別れてからも高揚が続いていた。自分が自分じゃない,そんな気がして,「やっぱり変われる」と,そう思った。
だが,目の前にはただ真っ暗な闇が広がっているだけで,日中の熱気を存分に吸収した重い空気が迎えに来た。今日あった良いこと,悪いことのすべてを持ち帰って来た怜にとっては嬉しくない歓迎で,さっきまで弾んでいた気持ちはずっと重いものになった。
そんな中で思い出すのは,睦の机のことだった。くぐもったその思考や感情を吐き出すかのように,深い溜息をつきながら靴を脱ぐと,廊下の電気をつけて居間へと向かう。
『子供部屋に行くためには,必ず居間を通るような間取りにしたい』というのが,彼の両親の考えだったそうだ。きっと,自分たちに娘が出来たときのことでも想定していたのだろう。
怜はたった今,誰も居ないその空間を通って自室へ向かっていく。
部屋につき,カバンを肩から外すと,それは今日一日分の全てが詰まっているかのようにドスンと床に落ちた。怜はそのまま,ベッドに飛び乗ってゆっくりと休みたいくらいだったが,実行する気にはなれなかった。
自分自身がひどく汚れているように感じたのだ。
一度そう考え始めると,頭や背中,腕がムズムズとかゆくなってきた。まるで目に見えないような小さな虫が居るような気がしてたまらなくなった。
手を洗いに行くどころか,すぐさまシャワーを浴びたくなった。
だが,それは叶わない。
この家には,母の帰りが遅いときには,彼が夕飯を作らなければならないという暗黙の了解があるのだ。昔の様に母が夕方には帰っているということがほとんどなくなった今となっては,その役割は怜のものとなっていた。
投げ出したかったが,それも叶わなかった。
「誰のおかげでメシが食えると思っているんだ」というのが,怜の父親の口癖だった。
去年,怜は一度,帰宅後に疲れて眠ってしまったことがあった。誰しも経験したことがあるのではないだろうか。
もしかすると,それは思春期特有の身体の不安定さから来る生理的なものなのかもしれない。怜もそうだった。
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