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書物の影で 1.ソール
声をかけられるには最悪のタイミングだった。
僕は机の下でひざをつき、視界不良のなか、やみくもに床を手さぐりしていた。膝からすべりおちた紙切れを拾おうとしていたのだ。たいしたものではない――机の上で束になっている請求書の一枚で、内容はわかっている。商店街の中央にある雑貨問屋から先週届いた、ランプ油三カ月分の代金だ。
台帳や伝票、作業中の書物が満載とはいえ、それほど大きくもない机の下で大冒険とはうちの店も気がきいている。どうせ僕しかいないのだが。
「おい、店主――」
若い、聞き覚えのない声だった。若者のくせに知らない相手におい、なんて呼びかけるのは礼節を欠いているし、甘ったるく語尾をのばす抑揚は貴族の発音だ。自動的に優先順位が下がった。
「少し待っててくれ」
僕はぞんざいに答えながら床をさぐり、やっと指に触れた書類の端をつまみあげた。
請求書なんて内容がわかっているなら後回しにすればいいじゃないか、というむきもあるだろうが、僕は落ちたものは拾っておきたい性分だ。第一、何が書いてあろうと紙は貴重だ。
床は埃だらけだが、ねずみの糞がないだけましだった。店の性格上、齧歯類と虫の駆除には気を配っている。
紙切れを片手に机の下から這いでて、最初に見えたのは、王立学院の学生が着る深緑だった。学生だったのか。
学生は僕にとって悪い客ではない。とくに春のいまごろは、新入生に魔術の教科書がよく売れる。しかし貴族の学生ならこの店に用はないはずだ。何しろ彼らはまだインクも乾かないような新刊や、専属の書記を酷使した写本を手に入れることができるのだから。
「……客をいつまで待たせるんだ。さっきからいるんだぞ」
しびれをきらした声が不機嫌につぶやく。僕はなかば屈んだ姿勢で椅子をひき、拾った紙切れを束の上に置いた。
「悪い、聞こえなかったものでね」
「聞こえなかった? 聞くまでもないだろう」
響きに含まれた傲慢な調子が癪にさわり、僕はやっと顔をあげて相手をみた。
正直にいおう――ずいぶんハンサムな学生だな、というのが最初の印象だった。濃淡のある栗色の髪、額と鼻梁のバランスは絶妙で、上着とおなじ深緑の眸、やや薄めの唇。待たされていらつく客をこんなに観察など、ふつうしない。それだけの美貌だったということだ。
加えて、ランプの明かりでうすぐらい店内でも身に着けているものが最上品ばかりなのは一目瞭然だった。上背は僕より少し高い程度だが、血色はよく、肩の厚みや体つきは……くらべたくもない。襟に精霊魔術の白と、最上級生を表す浅黄の帯が縫いとられている。
そういうことか。合点して、僕は机の上に置きっぱなしになっていた防護眼鏡(ゴーグル)を鼻にひっかける。深緑色の上着の周囲に鮮やかな光輝が浮かびあがった。
なんてこった。魔力のかたまりが服を着ている。これなら声をかけるまでもなく彼の存在に気がつくだろう。
――正常な人間なら。
「悪いね、気づかなかったよ」
相手はまじまじとこちらをみた。
「あんた、大丈夫か?」
「僕は魔力がほとんどないんでね」
自然な調子で僕はいった。こういうとたまに大げさな反応を返す人がいるが、暗色の大きな眼鏡をかけて表情の半分が隠れた僕がそこで何を感じるかなど、彼らはけっして気にかけない。一方、魔力を九割九分なくしてから十年も経ったいま、僕は他人の反応をだいたい予想できるようになっている。
しかし、この学生は大げさなことはしなかった。もう一度僕をみつめて、馬鹿にしたように鼻を鳴らした。
「それは大変だな」
僕には彼が感じていることがよくわかった。物心ついたときから、彼は隠れ鬼で勝てなかったはずだ。精霊魔術の道へ進む人間は例外なくそうなのだ。生きとし生けるものがあまねく魔力をもち、〈力のみち〉を形成するこの世界で、強大な魔力を持って生れるということは、うすぐらい空間でつねに光を掲げているようなものだ。どこに隠れたつもりでも、自分はここにいると叫んでいるのと同じことになる。
だが隠れることができないかわり、彼はつねに世界の中心にいて、他人が自分に気づかないとは思ってみない。そして魔力の欠如によって自分の存在を感知できない人間に出会ったら――そいつはこの現実で、一種の欠陥品だと考えるのだ。
無垢で馬鹿な若者だ。かつての僕のように。
急に腹が立ってきたが、こちらにも商売がある。
「それで、用件は? ここは中古本を売る店だ。きみのような裕福な学生に用があるとは思えないし、今年最終学年なら教科書に頼る時期はとっくに終わっただろう」
口調に嫌味がまじるのくらい、ご愛嬌といってほしい。
緑色の眼が細められて僕をにらんだが、気にしなかった。学生は視線をはずし、店をぐるりと見回す。
「たしかに古本屋だな」
また鼻を鳴らした。
「狭くて埃っぽいが」
そう、店は広くはない。
しかも商店街の隅、路地の奥にあり、通りがかりにふと立ち寄る客などまずいない。よくいって、知る人ぞ知る、というたぐいの店だ。だが一歩内側へ入れば、眼に映るのは天井まで届く書棚の列と、そこにぎっしり納められた書物、書物、書物だけで、これをめあてにきた者なら狂喜する。革装丁の大型本から、紙表紙の切り売り本、ページを裁断する前の綴じ本、古代の巻物本やその復刻版――崩れ落ちそうなくらい積み上げられた書物には、これまで人が蓄えた知識がつまっている。
ささやかな僕の城、僕の砦だった。
もちろん、この店に匹敵する場所なら王都には他にもある。王城の書庫、貴族個人の蔵書など。だがここは特別な店だ。先代から引き継いだあと、僕がそんな店にした。そんな僕の内心を裏づけるように学生が続ける。
「ここは王都でも一、二を争う稀覯本の宝庫だと人に聞いたんだが……」
「古本屋だからね。何でもあるわけじゃない」
謙遜ではなかった。書物の世界は深く広いから、ただの事実だ。学生はまた鼻を鳴らした。癖なのか、それとも埃のせいか。四方の書棚へぐるりと首を回す。
「ミュラーの『魔術における自然概念について』の初版を探している。ないか?」
「ある」
即答すると驚いたように目を見開く。
「本当に?」
「ああ。ミュラー・ワイズマン『魔術における自然概念について――元素と無限力の包含及び方法』版元はアイゼン、一三〇〇年。初版は羊皮紙本、大判、挿絵つき。全一八四頁。たしかにある」
僕は書誌をすらすらそらんじる。学生は疑わしげにこちらをにらんだ。
「あらかじめ、誰かに聞いていたのか?」
「何を」
「本の詳細だ。あらかじめ俺がこれを探していると誰かが教えて、調べたり――」
僕は途中でさえぎり、負けじと鼻を鳴らしてみせた。
「学生相手にそんな無駄なことを? 覚えているだけだよ」
相手はまた僕をにらみつけた。
「いくらだ?」
僕はうすら笑いを浮かべた。
「値段はない」
「どういうことだ」
「売らないからさ」
学生はぽかんと口をあけ、閉じた。自分が意地の悪い真似をしているのは百も承知で、僕はざまあみろと思う。この若者はこれまでこんなふうに誰かに拒絶されたことがないんだろう。お貴族様の事情など知ったことか。しかしこんなに間抜けな表情でも彼はなかなか、さまになっていた。美形は得だ。
おかしい。僕はなぜそんなことを考えているんだ?
「なぜだ? ここにあるんだろう?」
学生は気を取り直したようにいう。
「あいにくだが、きみには売れないね」
「本当は持っていないのに、あるといってみたんじゃないのか? 商売人はこれだから――」
「きみの左上、三八の印がある棚、上から三段目の右から三冊目だ――触るな」
僕は動こうとした学生を素早く制した。薄い手袋をはめながら、机の向こうから出て書棚の脇の小さな梯子を上る。目当ての書物は大きく、持ったまま梯子をおりるには十分注意が必要だった。眼鏡が邪魔だ。視力に問題があるわけではないから、ふだん店の中ではかけないのに。
机の上に本を置くと、学生は反射的に腕を伸ばしたが、僕がさっき触るなといったのを覚えていたのか、手をひっこめて革の表紙をみつめている。今度の表情は純粋な驚きだった。わかりやすく、しかもころころ変わるので面白かった。
きっと優しい世界に生きているんだろう。
僕は注意深く奥付のページを広げてみせた。
「たしかにあるとわかっただろう」
学生は僕と本を交互にみて、不満げに唇をゆがめた。
「なぜ売らない?」
「売りたくないから」
「ここは本屋だろう?」
僕はゆっくり、静かに書物を閉じた。手袋ごしでもなめらかな革の手触りと文字の美しさが胸をうつ。僕の店にある書物のなかで、内容も装丁もお気に入りの一冊だった。何度か改訂版が出されているが、初版は作者の思想の原点があるといわれ、折に触れて読み続けられている。僕が学院へ入って一年目のころは廉価版を熟読したものだった――あの当時、高価で希少な革装丁の書物など、手が出るはずもなかった。
「学院所属の身でこのレベルの魔術書を研究するような学生なら、最終学年に上がる以前に何度もこの店に来ていて当然だが、きみがここに来たのは初めてだ。それにきみがそんな種類の学生じゃないのは見ればわかる。仲間と賭けでもしたのか?」
「なにをいいいたい?」
「自分が読むのではなく贈り物にするために探しているのなら、よそをあたってくれ。たしかに貴重な版だが、一冊二冊しか残っていないほど希少でもない。お父さんの屋敷に出入りする業者に頼むんだな」
その業者はこの店に来るかもしれないが、という内心のつぶやきは口には出さなかった。
学生の顔にさっと朱がさす。お父さん、が効いたのか。たしかにわかりやすく侮辱したな、と僕は思う。
どうしてこんなに敵意を感じているのか自分でもよくわからなかった。たぶんこの学生がめったにない美貌で、しかも見るからに裕福だからだろう。おまけに魔力で光り輝いている――僕には眼鏡を通さないとわからないとはいえ。
彼は僕をにらみながら低い声できく。
「あんた――なんていう名だ」
「ソール」
「覚えておく」
すぐさま、きびすを返して戸口へ向かう。ふたたびかちんときた僕は背中へ声を投げつける。
「ひとに名をきいて、自分は名乗らないのか?」
学生はつんのめったように立ち止まり、ふりかえった。この短い時間で何度目だろう、僕はまたもその顔立ちの良さに感心していた。いやはや、何もかもそろった人間というのはいるものだ。今は――僕のせいで――多少優雅さを減じているが。
彼は顔を赤らめたまま、叫ぶように言葉をかえした。
「クルト・ハスケルだ」
そして壊れそうな勢いで扉をしめた。
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