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それから度々、私はホームの隙間に“顔”を見るよう になった。
現れる顔は、都度変わった。街の雑踏ですれ違う人々のように、老若男女、様々な顔と私は目が合った。
はじめこそ私は顔から目をそらそうと苦心していたが、最近はもう無駄な努力だと割り切ってしまっていた。意識しないようにするほど、乗車時にホームの隙間から私を見つめる顔の存在が脳内で主張を激化させるのだ。
気味が悪いこと以外、別段害があるわけでもなかったのだから。
激務に次ぐ激務の日々。嫌がらせのように仕事を押しつけられ、会社に泊まり込む日も増えてきた。加えて職場の人間関係も劣悪だ。多くは語らないが、私の挨拶には無言の返事がくる、とだけ言っておけば察してもらえるだろう。
今や私とまともに目を合わせてくれるのは、あの“顔”達ぐらいだった。
今日は珍しく、日付が変わる前に退勤した。
ホームで電車を待つ間、ベンチに座りコンビニで買ったカップ酒をあおる。アナウンスが響きわたる。
『まもなく、一番線を電車が通過します。危ないですから、黄色い線の内側までお下がりください』
私は飲みかけの酒瓶をベンチの下に置き、立ち上がった。アナウンスは同じ警告を繰り返している。通過列車のライトが近づいてくる。
黄色の点字ブロックの内側でぼうっと佇む。ほろ酔いで、まだ意識もしっかりしている。
タイミングを見計らって、私は一気に歩を進め、虚空に足を踏み出した。
暗転した視界に、“顔”が現れた。
深く皺の刻まれた老婆の顔は、やさしい微笑を浮かべていた。
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