マンホール・ガールの体温

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 なんだかひどく悪いことをしている気になって、僕は顔を上気させながら、マンホールから飛び出した。 「わっ」 「ご、ごめん! 僕、その、えーと……そう、行くところがあったんだ」 「そう」 「そ、それじゃ」  そそくさと、僕はマンホールに背を向けて駆け出した。行くところがあるというのは本当だった。ただ、思いつかなかっただけで。不思議なことに、体が温かくなったら、なぜそうしなかったのかが不思議なくらいに思えた。 「さよなら」  後ろから聞こえる彼女の声に、僕は振り向いて、 「うん。ありがとう」 と答えた。なんとなく間が抜けていたけれど、他の言葉は浮かばなかった。  火照った顔で雨を受け止めながら懸命に走り、彼女にまた会うにはどうすればいいかを聞き忘れたことに激しい後悔を抱いたときには、僕は男子グループのリーダーの家の前についていた。  そして呼吸を整え、気配を極限まで殺す。近所のやかましい犬さえ、こうなった僕には気づかない。  一軒家であるその家のドアに鍵はかかっておらず、僕はそっと中に忍び込んだ。リビングからは談笑する声が聞こえる。足元は、僕からしたたる水で濡れた。迅速にことを運ばなくてはならないが、見つかったら見つかったで、ありのままを話せばいいかとも思った。僕は、取られた服を取り返しに来ただけだ。  リーダーの部屋らしき場所は、二階に行くとすぐに分かった。中に入ると部屋の主はおらず(いても構わなかったけど)、僕の服は隅の方に乱雑に置かれているのを見つけた。  僕は手早くその制服を丸めて手に持ち、使われた形跡の乏しい勉強机からメモ用紙を一枚失敬して、走り書きした。 『いつでもお前の家に忍び込める。復讐されたくなければ、誰にも何も言うな』  手に持った服で水の跡をできる限り拭いてから、僕はリーダーの家を抜け出した。気づかれた様子はない。  いつの間にか、雨は上がっていた。  さっきの路地に、小走りでたどりつくと、マンホールの蓋は閉まっており、彼女の姿もなかった。  落胆が、僕にのしかかる。  また会いたい。そう思ったのは、彼女のきれいな横顔や、あの心地いい温もりのためばかりではなかった。  僕の胸の中には、暗く、重いざわめきが鳴っていた。  ある不安を、僕はどうしようもなく抱いたまま、仕方なくその日は、家に帰った。
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