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私の残された心を嘲笑うかのように彼女の圧し殺したような鳴き声が度を増す。
男がある程度聞こえる声で「馬鹿かよ......」といった類いの言葉を発したが何と言ったかは思い出せない。
彼女はその言葉に挫かれたらしく、鼻をすすりながら彼に背を向けた。
一歩二歩。
千鳥のような足取りで。
だが不意に立ち止まった。
それから何を思ったか、バッグの中から小さな果物ナイフを取り出した。
その銀色の光が黒い空気を斬り裂いて、彼女は賽銭箱に座るその男に向かってナイフを突き刺した。
何度も何度も。
男は始めは驚いた表情で自分の胸を見下ろし、それでも繰り返し突き刺さる果物ナイフに血を吐いて、掠れた声で命乞いをしたが、すぐにナイフが彼の頬を切り抜いた。
やがて目が動かなくなり、次に手足がぶらりと垂れ、そして絶命した。
私の気は動転していた。
幾分か目が闇に慣れて彼女の表情を垣間見ることが出来た。
返り血が白い頬を染めてなお、彼女はあの退屈そうな瞳のまま涙を溜めている。
美しかった。
私は息を呑んだ。
心臓がうるさい。
瞬きも出る幕を失う。
私の脚は震えていた。
美しさと恐怖は表裏一体だった。
あっという間もなく私は走って逃げ出していた。彼女の視線が背中に刺さった。
彼女の溜息が遠くで聞こえた。
私は決して振り返らなかった。
走って走って家路がバレぬよう遠回りをして、そして自分のアパートの汚く小さな部屋に貉のように潜り込んだ。
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