吠える元春

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 宇喜多家は備前国(岡山県)の豪族で、元々は毛利軍傘下で羽柴軍と 戦っていた。やがて毛利家を見限って秀吉側に付き、備中高松城攻めにも 参加していたのである。  秀吉はこの宇喜多軍1万を備中高松城に置き留めた。秀吉の中国大返し のトリックの鍵がここにある。  後に秀吉は山崎の戦いで明智光秀の軍勢2万と闘うが、本来なら羽柴軍 の主力となるべき宇喜多軍が何故か参加していない。日本史研究家達は 中国大返しの日程について喧々諤々の議論を続けて来たが、謎の種明かしを すれば「軍を二つに分ける」という単純なカラクリだった。 それにしても400年間もの長い間、見事にみんなコロッと騙された ものである。  羽柴軍約2万を率いた秀吉は5月23日に出発すると約90kmの距離を 悠々と戻り、5月30日には拠点の姫路城に到着した。羽柴軍本隊が姫路城で 来たるべき決戦に備えて暫く休息する中、別働隊が京都・本能寺で暗躍する。 別働隊を率いたのは秀吉の伯父杉原家次。  また、秀吉は備中高松城を出発してすぐに一人の使者を口封じで殺した。 使者の名は藤田伝八郎。明智光秀の家臣で「信長を殺す決心をした」 と言う光秀の書状を秀吉に届けた人物である。  彼の墓は今でも岡山市北区に残されている。もしもこの墓が無ければ 中国大返しの謎は永遠に解かれることは無かった。   完全犯罪を狙った秀吉だったが、藤田の墓を残したことは痛恨の失敗だった。 今頃草場の陰で地団太を踏んでいるだろうが後の祭りである。  さて、清水宗治の切腹は予定通り6月4日に行われた。小舟に乗って 湖に出た彼は舞いを披露した後に切腹したと伝えられている。それまで切腹は 失敗の責任を取る時に行われるだけのものだったが、彼の切腹以後は 武士の切腹=名誉ある死と言う捉え方をされるようになった。  小早川隆景の読み通り、羽柴秀吉は天下人となり、隆景は毛利輝元と共に 五大老の一人となった。だが、最後まで和議に反対した吉川元春は秀吉の 家臣になることを拒否し、息子に家督を譲って隠居してしまった。  皮肉なことに清水宗治によって新たな意味を持つこととなった切腹は、 その後千利休と豊臣秀次の切腹へと連鎖して行くのである。  日本史最大の謎は新たなドラマと共に、すべての真相が明らかとなる。
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