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これまで信長が何とか心変わりして四国攻めを中止してくれないだろうかと
ばかり考えていた光秀。殺害はまったく考えていなかった分、インパクトは
強烈だった。
「要は世間を味方に付ければ良いのです。非は上様にあります。日向守殿は
一族の窮地を救う為に立ち上がる。その義を誰が悪道と非難するでしょう。
勿論上様亡き後は日向守殿が次の征夷大将軍。朝廷は喜ぶでしょう。
この私も微力ながら貴方を支えますし、織田家の息子達も揃って腰抜け
ばかりで対抗馬には到底なり得ません。柴田勝家辺りが吠えるでしょうが、
な~に、奴もその昔上様に弓を引いた男ですから、他の家臣達が貴方を
後継者と認めれば黙って従うしかありません。後は日向守殿の御心一つ」
そう言うと秀吉は茶碗を光秀に返し、人差し指で光秀の左胸をトントンと
軽く叩いた。
光秀はしばらく沈黙した後、残りの茶をクッと飲み干した。千宗易が小さく
溜め息を付く。どんなに美しい器も、どんなに澄んだ水も、どんなに上等な
茶葉も、どんなに熟練の技も、ドロドロと湧き溢れる怨念と焦りと欲望の闇を
止めることは出来ないのだ。
世間は信長を第六天魔王と呼ぶ。だが、本当の魔物は秀吉だ。
茶の湯と言う聖なる場所、崇高な小さな空間で、最もおぞましい陰謀を
平然と企てる魔物。心の底から激しく憎むと共に、この魔物の間近で茶を
点て続けることで、茶道を「究極」へと導けるに違いない。
宗易はそう思った。
密会が終わり去って行く光秀。その後ろ姿を見ながら
「これであの男も見納めかと思うと、何やら寂しいの」
秀吉が呟いた。
「日向守殿を次の征夷大将軍にするのでは無いのですか?」
「ふん、親戚が窮地だからといちいち気を病む男に天下を統べることなど
出来ぬ。もし儂ならむしろ四国征伐の先陣を買って出るな」
「それだけ日向守殿は純粋なのですよ」
「はははは、純粋なもの程脆いものだ。混ぜ物をしない金が柔らかくて
装飾品にならないのと同じことだ。この乱世に純粋さは罪に等しい。
せいぜい儂の手駒として頑張ってもらおう」
そう言うと剣玉の技が初めて成功した子供の様に嬉しそうな笑顔になった。
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