吠える元春

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 1582(天正10)年5月21日、備中高松に援軍として到着した 毛利軍は唖然とした。 辺り一面が人工の湖となり、その中央に取り残された様に高松城が見える。 こうなると船で接近するしか無いが、湖の周辺には羽柴軍が待ち構えている。 「これが噂に聞く羽柴秀吉の策か。なかなか奇抜なことをするな」  毛利軍の指揮官小早川隆景が思わず感嘆の声を上げる。 「弟よ、感心している場合では無いぞ。高松城では清水宗治達が我々の  救出を待ち侘びているのだ。早く敵を蹴散らして堰を切ろう」  吉川元春がジロッと隆景を睨む。毛利元就の次男として吉川家の養子と なった元春、小早川家の養子となった三男の隆景は揃って後を継ぎ、 「毛利両川」と呼ばれて本家の毛利家を補佐している。 その毛利家は長男隆元が死去し、今は息子の輝元が後を継いでいる。 兄弟ながら性格はまるで違う。元春は父の勇猛さを引き継ぎ、一方の隆景は 父の知略を引き継いだ。 羽柴軍約3万に対して毛利軍本隊は約4万。更に高松城には5千の兵がいる。 元春は一気に主力決戦に持ち込もうと逸るが、隆景がそれを制した。 「ああして万全の布陣で待ち構えている敵に攻め掛かっても味方に被害が  出るだけだ。先ずは向こうの出方を見よう」  秀吉はこれまで2回高松城に攻撃を仕掛けたが、落城には至らなかった。 否、落城させなかったと言うのが正しい。 もし秀吉が力攻めで毛利領を侵攻するなら、毛利軍本隊が到着する前に 高松城を総攻撃するか、高松城攻めを諦めて他の城を攻めたハズだ。 だが、秀吉はわざわざ川の水を引き込んで湖を作り長期戦に持ち込み、 明らかに兵力温存を図りながら毛利本隊の到着を待っている。 常に冷静沈着な隆景はこの水攻めには何か裏があることを察していた。  近くの猿掛城に本陣を構えた毛利輝元。隆景は高松城に近い岩崎山、 同じく元春は日久山に着陣した。 隆景の予想通り、その晩岩崎山に羽柴軍の使者が来た。毛利家の外交を 担当する僧侶・安国寺恵瓊が対応すると、使者は羽柴軍の軍艦黒田孝高 (官兵衛)からの手紙の恵瓊に手渡して戻って行った。
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