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その樹は、陽光も満足に届かない、鬱蒼とした山裾の森にあった。
咽かえる新緑の生命力に彩られた草木の中で
朽ちた灰色の樹皮は所々が剥がれ落ち
歪に曲がれくねった幹は異形の不気味さを感じさせ
枝には葉の一枚も残ってはいない。
女は大樹の根元へ近づき、歪に聳えるその姿を仰ぎ見た。
目を引いたのは幹の中程に空いた大きな洞であった。
闇を湛えた空洞は、差し込む光をも飲み込んでしまう昏さである。
森に接する麓の町で、囁かれる噂があった。
町で死人が出た夜。
静まり返った森から身を裂く冷たい風に乗って
まるで人の死を喜び、嘲笑うかのような不気味な叫び声が聞こえてくるという。
叫びは、“悪霊の棲む樹”として恐れられる大樹に空いた洞から噴き出していた。
女は、辺りを注意深く見渡すと、徐に着物の裾をたくし上げ
樹の幹にしがみつき、よじ登り始めた。
崩れた樹皮と曲がった幹は登りなれない者であっても容易であった。
悪霊の棲む樹という名にはもう一つ、由来がある。
死に魅入られた者が引き寄せられるように、この樹で命を絶つのだ。
地面に近い枝には、括り付けられた幾つもの縄が死の痕跡となって風に揺れている。
手近な枝にまたがった女は
縄を枝にしっかりと結びつけ、もう一方を輪にし、
そこに自分の首を掛けた。
飛び降りると、
落下する勢いによって一気に首が締り、衝撃の瞬間に女の意識は空に飛んだ。
反動に任せ、だらりとした女の躰が揺れ、丈夫な枝を軋ませる。
茫漠とした霞の中で女は叫びを聞いた。
自分の声か。
否。女の首はきつく締り、呻きさえ上げられない。
叫んでいたのは大樹であった。
深淵をその内に宿した洞から断末魔の叫びが闇夜に響き渡った。
絶叫は徐々に?笑を孕み、ざわめきとなって樹々の枝葉を揺らした。
噂に名高い悪霊の叫び。
だが、その夜は常と異なっていた。
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