煮えているのは

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煮えているのは

「お肉、もう少し細かく切った方が良いかしら?」 「そのままで大丈夫だよ」  妻の作るカレーは美味い。  肉も具も、とろとろになるまで煮込んだチキンカレーだ。  市販のルーをベースにしているのに、いくらかのスパイスが加えられたそれは、外で食べるカレーよりもずっと美味しい。少なくとも、僕はそう思う。  実際、友人を家に呼んでカレーを振る舞った時も「胃袋を掴まれたな」とよく笑われたものだった。 「細かくした方が食べやすいのに」 「柔らかいからそのままでも十分、食べやすいし美味しいよ」 「そう? ありがとう」  一口サイズが好みの妻と、具がごろごろと入っている方が好みの僕。  二人にとってこのやり取りは、お決まりの軽口だった。 「お前のせいじゃない、あまり気を落とすな」  よく笑う妻は、一週間前に亡くなった。  何も知らない友人達は慰めてくれたが、それは間違っている。  彼女が、自らの命を絶ったのは、不貞を働いた僕のせいだからだ。  魔が差したのだと言い訳をしても、起こしてしまった事は変わらない。無様な言い訳も、必死の謝罪も。きっと、何をしても手遅れだったに違いない。  何も言わずに、けれども気付いてしまった彼女は、その晩、カレーを作った。  野菜を一口サイズに丁寧に刻み、市販のルーに、いつものスパイスを加える。それを弱火にかけたまま、首をそっとロープに通したのだ。  ふつふつと音を立てて煮えたままのカレーには、肉が入っていなかった。 「お肉、もう少し細かく切った方が良いわよね?」  今夜も、キッチンの向こうから、彼女が僕に問いかける。  大丈夫だよ、と喉の奥から絞り出し、耳を塞ぐ。  きっと、答えを間違えてはいけないのだ。 「細かくした方が食べやすいのに」 「柔らかいから、そのままで、十分美味しいよ」 「そう? ありがとう」  気がおかしくなってしまったなら、どれだけ楽だろう。  けれどまだ、ちっぽけな何かにしがみついて、正しい答えを繰り返している。 「ねえ。お肉、細かく切って入れても良いでしょう?」  嬉しそうな声。  ふつふつと鍋が煮える。  やけに寒い。  首を縦に振れば、きっと。
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