湯気の向こう

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湯気の向こう

 用事で出かけた冬の寒い日、帰りがけにコーヒーショップに立ち寄った。  温まりさえすれば何でもいいからと、一番安いコーヒーを買い、席に座る。  熱々の液体に口をつけると、冷え切っていた眼鏡がたちまち曇った。  拭いたところで同じことの繰り返しになるだけだし、本などを読んでいる訳でもない。コーヒーを飲み終わったら一度拭く。それまでは放置だ。  外すと忘れかねないので、曇っても構わない方向で。  そう決めてコーヒーを少しずつ飲む。  その、何口目かで気づいた。  最初の湯気で眼鏡はもう曇っているが、コーヒーを飲むと、新たな湯気で一層眼鏡が曇る。でも暫くすると薄ぼんやり、程度に戻る。  その、いっそうメガネが曇った時にだけ、視界に人影らしき何か入り込んでくるだ。  薄ぼんやりの時には人影は見えない。試しに眼鏡を外してコーヒーを飲んだが、その時も何も見えなかった。  コーヒーを飲む。湯気で眼鏡が曇る。その時にだけ人影が見える。  店員か客が見えているのだろうと思っていたが、そもそも店内はガラガラで、視界に紛れるような客もいなければ、無駄にうろつく店員もいない。  じゃあ、眼鏡が濃く曇るごとに見える人影は何なんだ?  それも、繰り返せば繰り返す程位置が近くなっている。  最初に気づいた時は、店の端っこ辺りにいるように見えた。  そこからは、カウンター席の一つ分ずつくらい近くなっている。  客じゃない。店員じゃない。そんな人影が見えること自体がおかしい。そう思うのに、何故か眼鏡を外すことができず、そのままコーヒーを飲み続けてしまう。  随分姿が大きく近くなった。  もう、色彩だけじゃなく、輪郭も朧に読み取れる。  女だ。  こっちを見てる。じっと俺を見ている。  コーヒーは、量的にもう最後の一口。  湯気で曇った眼鏡が晴れた時、そこにはたして女はいるのか。  さっきまでのように、曇りが消えたらいなくなるのか。それとも。それとも…。  やめればいいのに止められない好奇心。それに従い、俺は残るコーヒーを飲み干した。 湯気の向こう…完
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