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ポタリ
また首すじに水が落ちた。今度は落ちた水が首すじから背中にかけて、つ…と滑っていくのがわかった。
「わー!たくさんあるわねぇ」
女性の声にハッとした。婦人会で鑑賞に来たのだろう。ドカドカ中年女性が会場へと入って来た。小さな会場はあっという間にいっぱいだ。これまでのちょっと緊張感のある空気がガラッと変わった。
私はリュックを背負い直すと鑑賞のスピードを上げた。
鑑賞を終えて谷中庵を後にした。会場から一歩出ると夏が私をおし包む。なんだかぼんやりしていた。暑さのせいだけではない。幽霊画の余韻を引きずっているようで、ふわふわしていた。
「東京の人は歩くの速いなぁ」
私と一緒に会場を出た老夫婦がいたのだが、ちょっと境内を撮影している間に姿が見えなくなっていた。その間、1分くらいか。境内を出て辺りを見回しても姿はない。帰りは駅まで道連れがいると思ったのに。時計を見るともう5時前だ。私はまた一人、スマホを見ながら駅までの道を歩き始めた。
「お、お客さん!大丈夫ですか?」
改札を通ろうとすると駅員が慌てて飛んで来た。
「はぁ、大丈夫です」
「血だらけですよ!」
駅員に言われて腕を見た。何かに掻き毟られたような跡がびっしりとつき、血が滲んでいる。どっと全身から冷や汗が吹き出した。震える手で額の汗を拭う。チリ…と痛みを感じた。汗をぬぐった手の甲にはべったりと血がついていた。
救急車、いや警察をという駅員を押しとどめて、駅員室で着替えさせてもらった。全身…服で覆われている部分にも引っかき傷があった。その傷は全て上から下に向かっていた。下からすがりついた…いや…下に引きずり込もうとしていたかのように。
病院に行かないのならせめてと、駅員が消毒薬と軟膏を差し入れてくれた。おかげで引っかき傷は綺麗に治った。ただ、背中には赤い痣が残った。まるで血が滴ったような。
私がいたところはこの世だったのだろうか。あの日、受付でもらったはずのチケットはなく、見たはずの幽霊画の事は一切覚えていない。
了
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