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男の身体は、激しい憎悪に震えてすらいた。剣を握る手から、こちらに向かい踏み出した脚から、筋肉が引き絞られるギリギリという音がする。
それに、この匂い。
醜悪な、胃の中を掻き回されるような異臭。
分かる。これは、怒りの匂いだ。
彼から放たれる怒気を、匂いとして感じ取っているのだ。
今迄感じなかった筈の匂い、異常に発達した聴覚……。
否応なく、思い知らされる。
もはや自分は、人間ではなくなったのだと。
男と対峙している巨大な獣は――フェリクス・ベイクウェルは混乱していた。
つい数時間前迄は、自分は確かに人間だった。
だが、今は違う。
足元を見れば、水溜りに映り込んだケダモノと目が合った。
体長三ローデス(※三メートル)以上はありそうな、巨大な四つ足のケダモノだ。
黒鉄色の毛並みを持つ、獅子のようなその獣の頭の上には、羊のそれに似た巻角があった。耳は兎のように長いものが、くたりとへたれて垂れ下がっている。
そして、背中には鷲に似た翼まであった。
この世のどんな生き物とも違う、異形。
変わり果てたフェリクスの姿は、あまりに醜悪だった。
『ご、あ゛、ごあ、ああ゛』
嘆いても、喚いても、口から飛び出すのはケダモノの咆哮だけだ。
それを威嚇と勘違いしたのか、目の前の男は剣を構え跳躍した。
躱さなければと思うが、慣れない身体はフェリクスの自由にはならない。
殺気を放つ鳶色の瞳と、視線が交差する。
こうなった以上、抵抗するのは無駄に思えた。
こんなにも醜い獣に成り果てて、生きていく勇気はフェリクスには無い。いっそ、死んだほうがマシだ。
何故こんな事になったのか。
思い返してみれば、そう。そもそもこの男が発端なのだ。
フェリクスを殺しやがったなと言いながら、今まさに異形と化したフェリクスを殺そうとしているこの男。
(やはり、大嫌いだ)
振り下ろされる剣が、肉に食い込む瞬間。
フェリクスは、つい数時間の事を。
まだ人間だった自分に起きた不運を、思い返していた。
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