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ふと、篠の中で濁ったものが渦巻いてくる。家柄もよく、容姿、性格までいい。そんな人間を見て、尊敬や感心の念を抱ける程、篠は出来た人間ではない。妬みでも嫉みでも呼び方はなんだっていい。とにかく完璧なものを崩してみたいという仄暗い欲望が身のうちに広がっていく。
「今夜は本当に楽しいです。篠さんと話しているのは面白くって」
篠の内心など微塵も知らない一ノ瀬に、篠は口元だけで微笑み返す。
「そりゃあよかった」
一ノ瀬の端正な顔を見ていると、自分の中に昏い炎が灯る。まっすぐなもの程折り曲げてみたくなる。綺麗なもの程汚したくなる。歪んだ己を自覚しながら、それでも篠はこの先の展開を期待して興奮していた。
「……俺も楽しいよ」
その気持ちのまま浮かんだ篠の笑顔は、一ノ瀬にはどんな風に映っただろう。
空になったグラスを見つけたバーテンダーにおかわりを勧められて篠はボンベイを注文した。そのままハイペースで杯を重ね、スティンガーの刺激的な褐色を飲み干したところで机につっぷす。
「篠さん、しっかりしてください」 呼び掛ける声に篠は小さく唸っただけで言葉を発しない。 送っていくので住所を教えて欲しいと一ノ瀬が訊 ねても、「わかんない」と答えるだけだった。
取りあえず篠を寝かせる為に一ノ瀬は階下の部屋を手配した。手を貸そうとした従業員に断って、篠の腕を自分の肩に回し、腰を抱いて客室が並ぶ廊下を歩く。
室内に入ると、一ノ瀬は篠の体をベッドに横たえた。
「大丈夫ですか?」
心配そうな呼び掛けに、篠はパチリと目を開けて「水」と答えた。一ノ瀬は二つ返事でベッドを離れ、すぐにミネラルウォーターを手に戻ってきた。
「なあ、口移しで飲ま して」
篠がゆっくり起き上がり、上目遣いで見ると一ノ瀬が固まる。
「だめ?」
ねだるように首を傾げてみせると、一ノ瀬の顔が紅潮するのがわかった。
「いや、えっと。それは……」
狼狽する一ノ瀬に篠は鼻白んだ表情を浮かべて、手の中のミネラルウォーターを奪う。二、三口呷って息を吐いた。ボトルをサイドテーブルに置くと、篠はベッドの淵に座り、その隣をぽんぽんと叩いた。そこに座れという指示だと察した一ノ瀬は、大人しく篠の横へ腰を下ろす。
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