第2章

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 訊ねると、一ノ瀬はあの夜と同じくウイスキーを注文した。篠はそれを手際よく整え一ノ瀬へとサーブする。自分の前にグラスを置かれても、一ノ瀬はそれに手をつけようとはしない。黙ったままグラスを見つめる一ノ瀬に、篠は心のうちでほくそ笑んだ。  さて、こいつはどっちだろう。沈まぬよう、足掻きに来たのか、それとも自ら溺れに来たのか。 「お客様、よろしければ一杯お作り致しましょうか」 「え」 「ご注文のお飲み物が、ご気分に合わなかったようですので」  差し出がましかったでしょうか? と篠は付け加える。 「いえ、お願いします」  突然のことに戸惑いながらも提案に乗った一ノ瀬に、篠は目礼して酒を作り始めた。  シェイクした時に、中で氷が綺麗に回るよう計算してシェーカーに氷を詰めていく。続いてリキュールの計量。自分の一挙一動に一ノ瀬が注視しているのが篠には見なくてもわかった。酒代の中にはこの動作も含まれていると篠は考えている。美味い酒を作るのは当然のことで、それを仕上げるまでの所作を客に魅せてこそ有能なバーテンダーだ。 リズミカルな音を響かせて、左胸の前でシェーカーを振るう。一番の見せ場だ。特別な思い入れを持ってこの世界に 足を踏み入れた訳ではなかったが、この仕事は思いのほか篠の性に合っていた。 「お待たせ致しました。ビトウィーン・ザ・シーツでございます」  ブランデーの芳醇さに、レモンとコアントローをプラスした爽やかな香りの液体をショートグラスに注いで差し出す。一ノ瀬は何かを思い出したように複雑な表情を浮かべた。それを目にした篠は、口の端を密かに上げる。すると突然、グラスから離れていく篠の手を一ノ瀬が掴んだ。 「お仕事は何時に終わりますか?」  一ノ瀬の肘がグラスに触れて、『ベッドの中で』という意味深な名前を持つカクテルが揺れる。 「申し訳ございません。そういったプライベートな質問にはお答えいたしかねます」  澄ました篠の返答に、一ノ瀬は掴む手の力を強くした。しかし篠が「お客様」と窘めるとすぐに力を弛めて解放する。  何も知らない、覚えていない、というような顔をしながら、あの夜を揶揄するような篠の行動を一ノ瀬はどう思っているのだろう。
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