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その翌週も一ノ瀬は二度店を訪れて篠を誘った。しかし篠は誘いに応じなかった。「今日はやめとくわ」と答えた篠に、一ノ瀬は「わかりました」と一言答え、大人しく注文した酒を飲んで帰っていった。
一ノ瀬はしつこく引き下がって篠を困らせるようなことはしなかった。だけど悲しげで不安そうな表情は、篠の心の中に小さな波を立てる。その感覚に居心地の悪さを覚えて、それに背中を押されるように、「潮時だ」と思った。
一ノ瀬は篠が仕掛けたゲームのルールを侵した訳じゃない。むしろ知らない筈の一方的なそれを徹底して守っていた。ルールを破りそうになるのは、破りたくなってしまうのは、一ノ瀬ではなく――。
「篠さん? どうかしましたか?」
いつものホテルの部屋に足を踏み入れる。約二週間ぶりだ。考え事をしながら歩いていた篠は一ノ瀬に呼び掛けられ、はっと我に返った。別に、と曖昧に返事をする篠に向かって、一ノ瀬は嬉しそうに顔を綻ばせる。何がそんなに嬉しいのか。これから起こることも知らないで。篠は男がひどく滑稽に思えた。
「今日はお店が忙しかったみたいですから、篠さん疲れてませんか?」
ベッドの前で立ち止まった一ノ瀬が、振り向いて訊ねてくる。
「お風呂の用意してきましょうか? それとも何か飲みますか?」
篠を労わる言葉。優しげな眼差し。そんなものも、それを受けて湧いてくる様々な感情も、篠は急激に煩わしく感じた。
「あのさ、もうこういうの終わりにしたいんだけど」
白けたような息とともに、篠はそう言った。一ノ瀬の顔から表情が消える。篠は黙って一ノ瀬の言葉を待った。
悲しむだろうか、怒るだろうか。頭の中で追い縋ってくる一ノ瀬の姿を想像した。おしまい、を伝える瞬間。それが篠が何度も興じてきたゲームの一番の盛り上がりだ。なのに今は、それを一刻も早く済ませたいと思う。
「どうしてですか?」
一ノ瀬は静かに返した。
「どうしても何も飽きたから。面倒くさいことになんのもごめんなんで」
軽薄な言葉を吐き捨てて、篠はダルそうに頭を掻いた。
「ということは、俺の気持ちはとっくに見透かされてたってことですよね。そして篠さんはそれが迷惑だと」
自嘲するように一ノ瀬が笑う。篠の中のモヤモヤしたものが濃度を増した。
「頭がいい奴は話が早くて助かるよ」
嫌な種類の笑みを浮かべ、篠はおどけるように肩を竦ませた。
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