第1章

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「少し移動してもいいですか?」  篠は返事をしてその隣を歩く。立った状態で並ぶと、男が長身なことに気付いた。日本人男性の平均身長をギリギリクリアしている篠より、男は頭一つ分とまではいかないにしろ、目線はだいぶ上にある。  篠の財布は空、そして相手の懐には諭吉が何人も舞い込んだところを目の当たりにしている。そんな状況で『お礼に御馳走させて欲しい』と言われて、篠に断る理由はなかった。お礼をされる程何もしていない気もするが、この男の登場で台を替えるタイミングを逸した、という八つ当たりのような気分もある。それに篠はこの男に少しの興味もあった。  大通りまで歩くと男はタクシーを停めた。 「美味しいお店があるので」と柔和に笑う。その笑みに促されて、篠はタクシーに乗り込んだ。 「ロイヤルエースホテルまでお願いします」  男が運転手に告げた行き先に篠は目をみはった。それは宿泊したことがない人間でも一度は耳にしたことのある有名な高級ホテルだ。全国の主要都市を中心に複数の店舗があり、施設内にはレストランやバーが入っている。  男は篠に断ってから電話を掛けた。どうやら今から向かう店に予約を取り付けている様子だった。口振りからその店の常連であることが窺える。いくら馬鹿勝ちしたとはいえ、初対面の人間に高級料理を奢ろうなんて随分豪気な男だと篠は思った。そんな考えとは別に、違う期待が胸を掠める。 普通の人間は、同性の口からホテルという単語を聞 いたからといって何も思わない。だけど篠は思ってしまう側の人間だった。女性を抱けなくもない。けれど一度自分より強い力に奪われ、後ろで得られる愉悦を知ってしまってからは、そんなものでは足りなくなってしまった。  目的のロイヤルエースホテルへは二十分程で到着した。正面玄関でエントランススタッフが笑顔で出迎える。豪奢に飾り立てたりはしていない、懐古的な印象がする建物だ。吹き抜けのロビーでは、品良く飾られた海外の調度品や絵画が、程よく抑えられた照明に照らされて、クラシックな雰囲気をかもし出していた。男は慣れた様子でエレベーターホールへと歩いていく。
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