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「なあ、こんな格好でこんな高そうなトコ入るの、なんか気が引けるんだけど」
篠は身につける物にはこだわる方だが、今着ているのはモノトーンチェックのネルシャツにジーンズ。なんたって休日の昼下がりに近所のパチンコ屋へ出向いた服装だ。間違っても高級レストランを訪れるような身なりではない。篠が小声で申し出ると、男は安心させるように微笑む。
「確かに中にはドレスコードを敷いているようなお店もありますけど、基本的にホテルというのは寛ぐ場所です。自分の家と同じように、あるいはそれ以上にリラックスできないと。だから畏まった場所でなければ、服装なんて気にする必要はありませんよ」
男はそうは言うが、篠は完全な普段着、相手は見るからに高そうなスーツだ。居た堪れなさを感じない訳がない。そしてそれは、上流の空気に慣れ親しんでいる者が口にできる言葉だと感じた。
「それに今から行くお店は個室になっていますから。周りを気にしなくても大丈夫ですよ」
高級ホテル内の料理店、しかも個室。安心させる為に発せられたであろうその言葉も、今の篠にはそのグレードの高さに、かえってプレッシャーになるだけだ。
篠が男に連れられたのは建物の二十階にある創作イタリア料理店だった。夜景の見えるラグジュアリーな個室で、シェフが目の前でイタリアンにしては珍しく鉄板を使って調理してくれるという贅沢なものだった。 横並びの一人掛け用ソファは、座り心地が良過ぎて逆に落ち着かない。席についた当初は多少の遠慮や場違い感に気後れしていた篠だったが、食前酒のスパークリングワインの美味さ にそれらが吹き飛んだ。すぐに運ばれてきたアンティパストも唸る程に美味だった。
「そういや年いくつ?」
篠が訊ねると、口の中の物をきちんと飲み下してから男が答える。
「二十二です」
「……は? 冗談だろ」
その落ち着き振りや物腰から、なんの疑いもなく男が自分の年上だと思っていた篠は、知らされた年齢に目を剥いた。
「今年で大学を卒業します」
年齢より上に見られることが日常茶飯事なのか、男は控え目に笑いながら付け足した。
「だってその格好は?」
男が身に着けているスーツは、どう見ても就活生が面接用に着る物ではない。
「年齢もいいですが、その前に。俺はあなたのお名前が知りたいです」
男に言われ、篠は初めてお互いの名を知らないことを思い出した。
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