第1章

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「あ? ああ、篠、……篠秋穂」  少しの混乱を引きずったまま篠がぶっきらぼうに答えると、男は「篠さん」と笑顔で復唱した。 「申し遅れました、俺は一ノ瀬といいます」  恭しく差し出された名刺を受け取る。篠は手にしたそれに目をやると、年齢を聞いた時より更に驚愕の表情を浮かべた。その顔のままで一ノ瀬を見ると、一ノ瀬は困ったような顔で苦笑をする。 「まだ肩書きだけ、というのが情けない話なのですが。正確にはまだ見習いです。今は学業優先で、来年の春から正式に入社します」  そこには『一ノ瀬俊馬』と一ノ瀬のフルネームが書かれている。篠の度肝を抜いたのはその横に添えられた一文だ。ロイヤルエースホテルズ株式会社、企画推進部主任補佐。その文面通りなら一ノ瀬はこの施設……正確にはそれを経営する会社の関係者ということになる。まだ学生だという身分で、誰もが知る大企業で肩書きを持つのは、普通に考えれば不可能だ。だけどそれは事実で、その不自然さに一ノ瀬の物腰や雰囲気を加味すると、必然的に頭をよぎるのは……。 「なに、親がお偉いさんとかそういうアレ?」  篠の言葉の中にあるトゲを感じ取ったのか、一ノ瀬は少し申し訳なさそうに頷いた。 「はい、祖父が会長、父が代表取締役を務めています」  ということはこのホテル……いや全国に点在する系列店舗を統べる会社の御曹司ということだ。今のこの肩書きですら暫定的なものなのだろう。 「じゃあ一ノ瀬クンはそのうち社長さんって訳だ」  篠は職業柄、会社の経営者だの重役だのといった金を持った輩をたまに見掛けるが、もはや次元が違い過ぎる。「呼 び捨てでいいですよ。篠さんの方が年上でしょうから」  おいくつですか? と訊ねられ、「二十六」と短く答えた。一ノ瀬はそれに軽く頷く。 「あの、篠さんはどんなお仕事をされてるんですか?」  問われた篠は、勿体つけるように緩慢な動作でグラスを口元に運び、飲み込んでから口を開いた。 「一、薬の密売人。二、結婚詐欺師。三、どこぞの資産家の愛人。さあどれ?」 「え、……えっ」  焦る一ノ瀬を横目に見ながら、篠は残りのワインを飲み干す。困惑する様子を充分に味わってから、篠はふっと笑顔を作って見せた。 「冗談だよ。ただのバーテン」  途端、一ノ瀬はほっとした顔になる。
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