第1章

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「それじゃあドラマみたいに優雅にヴァイオリン弾いたり、フィアンセとかいたりする?」  篠の興味本位な質問の連続に、一ノ瀬はさもおかしそうに笑う。 「残念ながらヴァイオリンは弾けません。ピアノなら少しできます。そしてフィアンセはいません」  声を上げて笑っても一ノ瀬は少しも下品にならない。篠が今まで見てきた金持ちは皆、どこか歪んでいた。人生の勝者側に立っているという優越感、傲慢さ。けれど一ノ瀬からは不思議とそれを感じなかった。 「つーかなんであんなとこいたの? 一ノ瀬みたいな人間が行くとこじゃなくねえ?」  一ノ瀬の身分を聞いた時から、浮かんでいた疑問を篠はぶつけてみた。男がギャンブルに興味を持つことをなんらおかしいとは思わないが、ここまで規格外の金持ちが、ふらりと寂れたパチンコ店を訪れるのにはどうにも違和感がある。 「何か……したことがないことをしてみたくなったんです」  一ノ瀬の視線がテーブルの上のグラスに落とされて俯き、その横顔が憂いを帯びた。 「今日は午前中に学校へ行ってから、午後一番の社の会議に出て。その帰りに車から街の風景を見ていてふと思ったんです。この世界は俺の知らないことで溢れているなって」  思いつきで入った普段の自分とは無縁の場所。そこで偶然出会った自分の周りにはいないタイプの珍しい人間。結局は金持ちのボンボンの退屈凌ぎに巻き込まれた訳か。まあ少しも損はしてない、むしろ美味しいディナーを頂けてラッキーってなぐらいだ。  篠は冷めた頭でそんな風に思った。一般人は誰しも、少なからず金持ちに対してアレルギーを持っているのかもしれない。それは突き詰めれば妬みという言葉に言い換えられる。「今まで色んなことを学んで、社会人としてやっていくのが楽しみでもあるのに、少しだけ不安があるのかも しれません」 それが愚痴めいた言葉だと自覚があるのか、一ノ瀬は自嘲の笑みを浮かべる。生まれた時から約束された将来。それは同時に重圧を伴うものの筈だ。一ノ瀬が篠を呼び止めたのは、自覚がないにしろ、もしかするとこんな風に誰かに弱音を吐き出したかったのかもしれない。立場があり、期待されている以上、周りの人間には弱さを見せられないのだろう。きっと一ノ瀬は優しい人間だと思った。責任感が強く、ちゃんと自分を省みられる。人の上に立つという重みを、本当の意味で理解しているからこそ先が不安なのだ。
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