第1章

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 口の中が鉄臭い。腫れた頬がずきずきと痛む。口元をハンカチで押えながら、宇坂圭人は見慣れたビルの自動ドアをくぐった。一階のコンビニの横を通り過ぎ、エレベーターホールへと向かう。夜の八時を過ぎたビルの中は、人の姿は殆どない。唯一エレベーターに乗り合わせた四十代半ばの女性は、宇坂を怪訝そうにちらりと見遣り、三階で降りていった。宇坂が降りたのは七階。このフロアには宇坂が勤めるデジタルメディア製作会社、【クリメージ】第三開発部が入っている。宇坂は毎日ここへ通うが、今目指しているのはその場所ではない。エレベーターを降りた右手が職場、歩きだしたのは反対方向だ。  ガラス製の扉のフレームは落ち着いたダークブラウン。ガラス部分には【TUKISHIRO DENTAL CLINIC】と洒落た字体で記されている。宇坂はその扉の前で口を押えたまま呆然と立ち尽くした。 『本日の診療は終了致しました』  扉に掛けられたプレートを凝視する。  診療時間もガラスに書いてある。八時まで。もうとっくに過ぎていた。  どうしよう。出血している所為か頭が上手く回らなかった。とにかく歯医者に行けばなんとかなる、それしか考えていなかった。次の行動を起こすことができず、扉の前で突っ立っていると、不意に中から女性が近付いてくるのがガラス越しに見えた。  宇坂が扉の前から一歩後ずさるとガラスが開く。現れた女性は、現在二十五歳の宇坂とちょうど同じ年頃に見えた。ベージュのワンピースにカーディガンを合わせた、品の良い服装。なかなかの美人だ。職場はこれ以上ない程近いが、見覚えはなかった。 「申し訳ございません、本日の診療は終了しております。……いかがされました?」  丁寧な事務口調で追い返そうとした女性は、宇坂の尋常ではない様子に表情を変えた。 「あー……」  宇坂はすぐさま事情を説明しようとしたが、口の中に血液と唾液が溜まって上手く喋れない。そんな時、部屋の奥から声がした。
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